2016
12.21

鎖国の功罪―長崎にて―

 日本語の中には幾多の外来語が使われていて、カタカナで表記してはされているものの日本語として完全に定着している言葉がたくさんあります。特に室町時代晩期、安土桃山時代にはスペイン、ポルトガル、江戸時代に入ってはオランダとの交易により、それらの国の言葉が入ってきました。例えばスペイン語ではシャボンやメリヤス、ポルトガル語ではパンやビードロ、オランダ語ではエレキやランドセルといった言葉がそれにあたります。第二次大戦後においては、世界の経済や産業の中心がアメリカであることや、日本自体が政治的、経済的、文化的に圧倒的なアメリカの影響下にあったことから、英語の外来語が多数を占めることになりました。しかし、それ以前においては、調べるといろんな国の言語から日本語に必要な言葉が取り入れられていることが分かります。
 言語も文化の一つであることから、こうした外来語が日本語の中に取り入れられることは一種の文化交流ということができます。もちろん言語による文化交流には、背景としてそれまで日本に無かった「物」そのものが国内に持ち込まれて広く知られるようになったり、実際に使われるようになったりしたということも示していると考えられます。例えば「こすると泡が出て体を洗う物」が日本に持ち込まれた故に、シャボンという言葉が外来語として定着したわけですし、「小麦粉を練ってイースト菌で発酵させた後に焼いた食べ物」が同様に持ち込まれたために、パンという言葉が外来語として定着したわけです。そしてこれだけ多くの外来語が存在し、その言葉が示す「物」が同様に多く存在することから、日本人の国民性として、新しいものや外国から入ってくるものに対して拒絶することなく、むしろ積極的に受け入れていく性格を有していると想像されます。
 長崎は、江戸時代の鎖国後に唯一ヨーロッパに門戸が開かれていた町であったため、進んでいる西洋の文明、文化、学問、技術に対しての日本人の対外的な興味、関心がこの町に集まっていただろうと推測します。しかし、江戸時代の出島はほんの小さな島でしかなく、オランダ人は大挙してやって来ていたわけではなかった。そしてキリスト教の再布教を幕府が恐れるため、できる限り出島を外界から遮断していたため、なかなか文化交流が進んでいくことがなかった。今回の修学旅行で稲佐山頂の展望台から長崎の町を一望しましたが、周囲を埋め立てられ、長崎の町と地続きとなっている現在の出島は、あまりに小さく何の変哲もない長崎市街の一部となっています。
 安土桃山時代に海外との文化交流で国内に輸入された様々な文化、文物は鎖国によって、国内で独自の発展をすることとなったことでしょう。また一方で伝統的な日本の文化、文物についても対外的な接触を経験することによって大きく変容し、江戸時代で発展していくこととなったと考えられます。安土桃山時代において、螺鈿はヨーロッパとの交易による重要な輸出品であったようです。おそらくより華やかなデザインがヨーロッパでは好まれたのではないかと想像されますが、こうした影響によってか、江戸初期に尾形光琳らによって大胆なデザインが表現されるようになりました(「八橋蒔絵螺鈿硯箱(やつはしまきえらでんすずりばこ)」が東京国立博物館に所蔵されていて国宝となっています。)。鎖国が存在しなければ、例えば螺鈿の意匠も江戸時代には全く別のものとなっていたのではないか。鎖国があったがために、日本独特なデザインが様々に工夫されるようになり、発展していったことが考えられます。
 歴史には「if」はありませんので、鎖国が存在しなかったらという設定によって日本の文化の発展や変遷を想定することは無意味でしょう。鎖国があったからこそ起きた日本独特な意匠の工夫に、私たちの美意識は魅かれているのではないか。すなわち、私たちの美的な感覚は安土桃山時代のヨーロッパ文明、文化との交流を経た後の江戸時代の日本独自の文化の発展に負っているところがきわめて大きいことを自覚する必要があると考えます。

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