2017
05.18

室町時代の絹織物

娘と社会(歴史)の中間テストの準備を一緒にしていたときのことです。室町時代の産業の発達についてノートに書かれていました。そこには「絹織物の発達…西陣織(京都)や博多織(福岡)」と書いてあったので、このことを先生はどんなふうに授業で教えてくれたのか尋ねてみると「別に詳しく教えてくれたわけではなく、黒板にそういうふうに書いたので写した」と娘は言いました。
絹は紀元前3000年ぐらいに中国で絹糸の生産が始まっていたと言われていて(他の説にはもっと前の紀元前5000年という記述もあります)、漢の時代にはすでに養蚕のやり方ができ上がっていた、と調べると出てきます。御存知の通り、絹糸はカイコが吐く糸から作られるのですが、その昔、中国でどのようにしてカイコガを発見して、その吐く糸から絹糸をつくる方法を発明するようになったのか、よく分かっていないようです。現在カイコガは完全に飼育化された昆虫で、野生のカイコガはすでに存在していない、飼っているカイコを野外の桑の木に放ってもすぐに全滅してしまい、人間の飼育環境でなければ生きていくことができない昆虫となっているということでした。小さな芋虫がつくった繭から糸が取れて、それを衣服に加工しようと考えた古代中国人は、きわめて偉大な発想力の持ち主であったと考えられます。
絹は中国からチベット、インド、アラビアを経てヨーロッパに運ばれました。中国でしか採取できない謎の糸を求めて、西方の商人たちは乾燥した広大な砂漠を、ラクダを連れて旅をしてきました。そして逆に西方にしか産出していなかった様々な品々を中国に持ち込みました。例えば「紅(べに)」は、エジプトを原産とするベニバナから抽出される赤い染料ですが、絞り出した色素から赤だけを取り出す製法に工夫がいること、膨大なベニバナを必要とすることから、絹と同様に非常に高価な商品でした。ガラスは高い温度で珪石などを焼くと、透明質で固い物に変化することがメソポタミアで発見され、透明で美しい器として中国にやってきました。
絹が日本に渡って来たのは弥生時代だったと言われています。様々な弥生時代の遺跡から絹織物が発掘されているそうですが、やや時代が下って古墳から発掘されている絹織物の織り方が中国の絹織物とは異なった糸の使い方であることから、日本独自の絹織物がこのときにすでに織られていたと考えられています。大化の改新以後、律令政治が成立するにあたり、絹は租庸調のうちの正調として組み入れられているので、一定量の生産が各地で行われていたのではないかと思います。
平安時代、貴族文化が華やかな頃、女性装束として着用された十二単は絹織物であったということです。色の組み合わせに季節を表す厳格なルールが存在し、染めの技術の向上もさぞかし重要だったと思います。十二単は20kgもあったと言われていますが、当時の日本のカイコである「小石丸」という種の吐く糸は細く、実際の十二単は8堋度だった、という説もあるようです。
平安時代の終わり頃の平家支配の時代から鎌倉時代にかけて、当時の中国である宋と日本との間で日宋貿易が行われ、日本に輸入されたのは宋銭とならんで、陶磁器や絹織物でありました。モンゴルによる中国支配後に成立した明と日本とは1400年代以降、日明貿易が行われ、日本に輸入されたのは、やはり明銭(永楽通宝)とならんで生糸であったということです。こうしたことをいろいろと考え合わせると、日本で生産される絹糸と絹織物は、中国から輸入される絹糸や絹織物と比べて品質で見劣りがしていたに違いなく、日本の絹織物の品質向上は、江戸時代になってからようやく図られていったのではないかと思われます。
西陣とは応仁の乱のときの山名宗全を中心とした西軍が陣を張った場所ということですが、応仁の乱後に絹織物の手工業者が集まるようになり、この地名となりました。博多織はもっと歴史が古いようで、宋から帰国した人が絹織物の技術を持ち帰って伝えたのが発祥であるようです。
私が娘のノートを見てひっかかったのは、これら室町時代から盛んとなった西陣織や博多織の絹織物の原料は一体どこから来たのか、ということです。国内で生産されている絹糸であったのか、明から輸入された絹糸であったのか。国内で生産されていたとしたら、どうやって糸を博多や京都に運んだのか。明からの輸入であったとすれば、海路の安全をどうやって確保したのだろうか。京都は応仁の乱で焼け野原となっていたでしょうし、すでに下剋上の時代となり交通の安全が図られていたかどうかも分かりません。また、海路においては瀬戸内海は海賊が横行し、そうしたことを題材とした小説も出ているぐらいで(和田 竜「村上海賊の娘」新潮文庫)また、中国の沿岸を倭寇が荒らし回る時代となってきていて、交易船の安全を確保するのも相当に難しかったのではないかと思われます。
そうした困難な環境にあっても美しい絹織物を必要とした人々がいて、その人達のために絹が織られていたということを印象深く感じました。困難で殺伐とした時代であったからこそ、人々は美しいものを求めたのかもしれません。

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