2017年6月の個別の校内見学の日程は次の通りです。 6月8日(木)、14日(水)、20日(火)、27日(火) 見学時間は①15:00〜、②16:00〜の2回ですが、 27日(火)に限り16:00〜の1回のみとさせて頂きます。ご了承ください。 工芸高校を見学したい、よく知りたい、という方はぜひご来校ください。 なお、見学希望の方は、必ず事前に電話でご予約をお願いします。 校内見学のご予約やお問い合わせは、 副校長 古藤(ことう)まで 電話:03-3814-8755(代表) 9:00~17:00(休日・祝日を除く) 5月28日(日)、都立工芸高校創立110周年記念式典が文京シビックホールで行われました。来賓の方々と全日制・定時制の生徒、職員が参加し第一部の会は厳かに執り行われました。第二部は全日制からAMIGDそれぞれの学科の生徒たちが各科の特色のある取り組みをプレゼンテーションし、定時制はG科が代表で工芸高校の歴史についてプレゼンテーションを行いました。 校長ブログでは創立110周年記念式典で鳥屋尾校長が話された式辞を掲載しています。 【工芸高校校長のブログ】 創立110周年記念式典校長式辞 (リンクをクリックすると工芸高校校長のブログが別ウインドで開きます) 写真は式典の様子です。 輝く初夏の陽射しの美しい今日この良き日、東京都立工芸高等学校 創立110周年記念式典の開催にあたり、大勢の御来賓の皆様の御臨席を賜りましたことを、高いところからではございますが、心より御礼申し上げます。

東京都立工芸高等学校は、明治40年 1907年、東京市京橋区築地の地に、東京府立工芸学校として誕生いたしました。本校建学の主旨については、日露戦争直後の産業振興と国力増強とを色濃く反映した記録が残っています。当時、東京高等工業学校長 手島精一氏による、東京府議会に提出した工芸学校設立予算案において、府立工芸学校建学の主旨として次のように文章が残っています。「近時我国における機械製作または土木建築に属する工業教育は漸次勃興したりといえども、工芸品の製作に関する技術者の養成にいたりては、いまだ教育的施設あるを見ず、戦後経営の一としてこの種事業の振興を図るはきわめて機宜に適することのみならず、まず都市において施設する必要を痛切に認むるものなり」工芸品の製作技術者の養成による産業の開発、振興が、本校を設立する理由であることが示されています。その後、渋沢栄一氏を設立委員会委員長として計画が進み、創立年には金属細工科、精密機械科、翌年には家具製作科、明治43年には附属補習夜学校、大正7年には印刷科が設立され、さらに第二次大戦後の昭和24四年に図案科が加わり、110年の歴史を刻む中で、卒業生22000人を超える堂々たる高等学校として現在に至っています。

本校卒業生の中には文化勲章を受章された方、人間国宝に認定された方、叙勲や褒章を受けられた方をはじめとして、伝統工芸の世界、デザイン、クリエイティブな世界の第一線で、大勢の卒業生たちが活躍してきました。
こうした素晴らしい人材を輩出してきた背景として、本校の教育活動の質の高さがあげられます。実習等を通して、いろんな角度から生徒のもつ能力、才能を引き出し、高い技術や知識を身に付けるように鍛錬していく、そうした姿勢は綿々と本校に引き継がれてきました。創立から2年後の明治42年の「学校案内」が記録として残っています。「教育の方針」として「本校の教え方は可成生徒をして進んで自ら学習せしめ、教師は生徒の学習に対し親切に手を引いてやる流儀なり」「本校に於ける教授は一般に実用を主とし、殊に技術に関する学理実習の両方面は、全然実際的にして、業務に就きて後出会うがごとき教材を精選し、その相互の連絡に関しては十分に思慮を加えたり」とあり、この姿勢は百十年経った現在でも何ら変わるところがないと断言できます。

しかし、本校はけっして平坦な道をたどって現在に至っているわけではありません。大正12年の関東大震災の際は、築地の校舎は全焼し、焼け跡に仮校舎を建てて実習をおこなった時期がありました。日中戦争時から第二次世界大戦に至る時期においては出征する先生、士官学校や兵学校、予科練に進路変更する生徒の姿がありました。先生方の努力もあり、空襲で校舎が焼けることはありませんでしたが、戦後、企業に拠出したりGHQに接収されたりして工作機械が不足し、実習に不都合が生じた時期もありました。また、校地の移転問題や現校舎建て替えの際の先端技術教育センターとの併設問題など、多くの苦労があったということも聞いています。こうした苦労を先人たちが乗り越えて、110年目を迎えることができたことを忘れてはなりません。

さて、これからの時代の本校の役割は何か、本校はどうあるべきか、ということを考えていかなければなりません。近年、急激なコンピュータとネットワークの発達は私たちの生活を大きく変えてきました。文部科学省が昨年末に発表した中央教育審議会答申には、「子供たちの65%は将来、今は存在していない職業に就く」という、ニューヨーク市立大学大学院センター教授キャシー・デビッドソン氏の予測や、「今後10年〜20年程度で、半数近くの仕事が自動化される可能性が高い」というオックスフォード大学准教授マイケル・オズボーン氏などの予測、「2045年には人工知能が人類を越える「シンギュラリティ」に到達する」という指摘を掲載しています。しかし、こうした将来の予測が困難な時代であるからこそ、しっかりとした知識と技術に裏打ちされた教育が必要となってきています。そして、その教育の成果として、社会の在り様、ライフスタイル、それに伴う必要な「ものづくり」や「デザイン」をきちんと提示すれば、それがこれからの社会のスタンダードとなっていくに違いありません。すなわち、都立工芸生が、本校で学んだ技術と知識によって、これからの社会の将来像を提示できるようになることこそが、創立以来これまで、日本の「工業」「工芸」「デザイン」をリードしていた本校の役割ではないか、と私は思います。
もちろんこのことは、けっして容易なことではありません。しかし、都立工芸生の心意気として、より困難な開拓者の道を選び、創造性や感性、発想力によって、新たな時代をつくり出していくことが大切だと思います。そして、優れた「ものづくり」や「デザイン」を生み出すことによって世界の人々に平和と幸せをもたらしてきたいものです。

結びとなりますが、創立110周年を期に、本校の益々の発展と、本校生徒諸君、卒業生の皆様の活躍を祈念するとともに、全都立高等学校の発展と都立高校に通う生徒全員の幸せを願い、また、創立110周年記念式典に御出席いただきました皆様の御健勝をお祈りいたしまして式辞といたします。

5月24日(火)3~4時間目、前期生徒総会が行われました。 工芸高校の校舎には、行事等のお知らせをする懸垂幕が張られています。 現在は「授業公開」の情報が載っています。 JR水道橋駅側から見ることができますので、近くにお越しの際はぜひご覧ください。 平成29年度の工芸高校PRポスターが完成しました。 ポスター制作は全日制グラフィックアーツ科3年 牧 天羽音さんです。 今後の説明会など、工芸高校の行事の情報が掲載されているので、お見かけの際はぜひご活用ください。 娘と社会(歴史)の中間テストの準備を一緒にしていたときのことです。室町時代の産業の発達についてノートに書かれていました。そこには「絹織物の発達…西陣織(京都)や博多織(福岡)」と書いてあったので、このことを先生はどんなふうに授業で教えてくれたのか尋ねてみると「別に詳しく教えてくれたわけではなく、黒板にそういうふうに書いたので写した」と娘は言いました。
絹は紀元前3000年ぐらいに中国で絹糸の生産が始まっていたと言われていて(他の説にはもっと前の紀元前5000年という記述もあります)、漢の時代にはすでに養蚕のやり方ができ上がっていた、と調べると出てきます。御存知の通り、絹糸はカイコが吐く糸から作られるのですが、その昔、中国でどのようにしてカイコガを発見して、その吐く糸から絹糸をつくる方法を発明するようになったのか、よく分かっていないようです。現在カイコガは完全に飼育化された昆虫で、野生のカイコガはすでに存在していない、飼っているカイコを野外の桑の木に放ってもすぐに全滅してしまい、人間の飼育環境でなければ生きていくことができない昆虫となっているということでした。小さな芋虫がつくった繭から糸が取れて、それを衣服に加工しようと考えた古代中国人は、きわめて偉大な発想力の持ち主であったと考えられます。
絹は中国からチベット、インド、アラビアを経てヨーロッパに運ばれました。中国でしか採取できない謎の糸を求めて、西方の商人たちは乾燥した広大な砂漠を、ラクダを連れて旅をしてきました。そして逆に西方にしか産出していなかった様々な品々を中国に持ち込みました。例えば「紅(べに)」は、エジプトを原産とするベニバナから抽出される赤い染料ですが、絞り出した色素から赤だけを取り出す製法に工夫がいること、膨大なベニバナを必要とすることから、絹と同様に非常に高価な商品でした。ガラスは高い温度で珪石などを焼くと、透明質で固い物に変化することがメソポタミアで発見され、透明で美しい器として中国にやってきました。
絹が日本に渡って来たのは弥生時代だったと言われています。様々な弥生時代の遺跡から絹織物が発掘されているそうですが、やや時代が下って古墳から発掘されている絹織物の織り方が中国の絹織物とは異なった糸の使い方であることから、日本独自の絹織物がこのときにすでに織られていたと考えられています。大化の改新以後、律令政治が成立するにあたり、絹は租庸調のうちの正調として組み入れられているので、一定量の生産が各地で行われていたのではないかと思います。
平安時代、貴族文化が華やかな頃、女性装束として着用された十二単は絹織物であったということです。色の組み合わせに季節を表す厳格なルールが存在し、染めの技術の向上もさぞかし重要だったと思います。十二単は20kgもあったと言われていますが、当時の日本のカイコである「小石丸」という種の吐く糸は細く、実際の十二単は8堋度だった、という説もあるようです。
平安時代の終わり頃の平家支配の時代から鎌倉時代にかけて、当時の中国である宋と日本との間で日宋貿易が行われ、日本に輸入されたのは宋銭とならんで、陶磁器や絹織物でありました。モンゴルによる中国支配後に成立した明と日本とは1400年代以降、日明貿易が行われ、日本に輸入されたのは、やはり明銭(永楽通宝)とならんで生糸であったということです。こうしたことをいろいろと考え合わせると、日本で生産される絹糸と絹織物は、中国から輸入される絹糸や絹織物と比べて品質で見劣りがしていたに違いなく、日本の絹織物の品質向上は、江戸時代になってからようやく図られていったのではないかと思われます。
西陣とは応仁の乱のときの山名宗全を中心とした西軍が陣を張った場所ということですが、応仁の乱後に絹織物の手工業者が集まるようになり、この地名となりました。博多織はもっと歴史が古いようで、宋から帰国した人が絹織物の技術を持ち帰って伝えたのが発祥であるようです。
私が娘のノートを見てひっかかったのは、これら室町時代から盛んとなった西陣織や博多織の絹織物の原料は一体どこから来たのか、ということです。国内で生産されている絹糸であったのか、明から輸入された絹糸であったのか。国内で生産されていたとしたら、どうやって糸を博多や京都に運んだのか。明からの輸入であったとすれば、海路の安全をどうやって確保したのだろうか。京都は応仁の乱で焼け野原となっていたでしょうし、すでに下剋上の時代となり交通の安全が図られていたかどうかも分かりません。また、海路においては瀬戸内海は海賊が横行し、そうしたことを題材とした小説も出ているぐらいで(和田 竜「村上海賊の娘」新潮文庫)また、中国の沿岸を倭寇が荒らし回る時代となってきていて、交易船の安全を確保するのも相当に難しかったのではないかと思われます。
そうした困難な環境にあっても美しい絹織物を必要とした人々がいて、その人達のために絹が織られていたということを印象深く感じました。困難で殺伐とした時代であったからこそ、人々は美しいものを求めたのかもしれません。

5月1日(月)国立西洋美術館にて見学会、5月2日(火)明治神宮外苑聖徳記念絵画館周辺にて写生会を行いました。

見学会では常設展示を鑑賞し、美術・工芸分野の素晴らしい作品を存分に知ることができました。

写生会では天候にも恵まれ、若葉が眩しい神宮外苑にて皆集中した様子で写生を行いました。1年生は初めての写生会でしたが、新しく出来た級友とともに一生懸命取り組んでいました。上級生はこれまでの学習を生かし、構図や色使い等に工夫を凝らしていました。写生会終了後の講評会ではクラス毎に全員の絵を鑑賞し、生徒間で刺激を受け合っていました。

写生会の作品は以下の日程で学年毎に1階生徒昇降口のスペースにて展示いたします。ご来校の際はぜひお立ち寄りください。

1年生 5月15日〜19日

2年生 5月22日〜26日

3年生 5月29日〜6月2日

 写真は写生会の様子と写生会作品展示告知ポスターです。

梅雨の時期に入るので食中毒に注意しましょう。   6月の給食メニュー 平成29年度年間授業計画書をアップしました。 「平成29年度 全日制課程 年間授業計画書」 (PDFサイズ 3.33MB) 上記のリンクをクリックするとPDFファイルが別のウインドで開きます。