2017
05.28

創立110周年記念式典校長式辞

輝く初夏の陽射しの美しい今日この良き日、東京都立工芸高等学校 創立110周年記念式典の開催にあたり、大勢の御来賓の皆様の御臨席を賜りましたことを、高いところからではございますが、心より御礼申し上げます。

東京都立工芸高等学校は、明治40年 1907年、東京市京橋区築地の地に、東京府立工芸学校として誕生いたしました。本校建学の主旨については、日露戦争直後の産業振興と国力増強とを色濃く反映した記録が残っています。当時、東京高等工業学校長 手島精一氏による、東京府議会に提出した工芸学校設立予算案において、府立工芸学校建学の主旨として次のように文章が残っています。「近時我国における機械製作または土木建築に属する工業教育は漸次勃興したりといえども、工芸品の製作に関する技術者の養成にいたりては、いまだ教育的施設あるを見ず、戦後経営の一としてこの種事業の振興を図るはきわめて機宜に適することのみならず、まず都市において施設する必要を痛切に認むるものなり」工芸品の製作技術者の養成による産業の開発、振興が、本校を設立する理由であることが示されています。その後、渋沢栄一氏を設立委員会委員長として計画が進み、創立年には金属細工科、精密機械科、翌年には家具製作科、明治43年には附属補習夜学校、大正7年には印刷科が設立され、さらに第二次大戦後の昭和24四年に図案科が加わり、110年の歴史を刻む中で、卒業生22000人を超える堂々たる高等学校として現在に至っています。

本校卒業生の中には文化勲章を受章された方、人間国宝に認定された方、叙勲や褒章を受けられた方をはじめとして、伝統工芸の世界、デザイン、クリエイティブな世界の第一線で、大勢の卒業生たちが活躍してきました。
こうした素晴らしい人材を輩出してきた背景として、本校の教育活動の質の高さがあげられます。実習等を通して、いろんな角度から生徒のもつ能力、才能を引き出し、高い技術や知識を身に付けるように鍛錬していく、そうした姿勢は綿々と本校に引き継がれてきました。創立から2年後の明治42年の「学校案内」が記録として残っています。「教育の方針」として「本校の教え方は可成生徒をして進んで自ら学習せしめ、教師は生徒の学習に対し親切に手を引いてやる流儀なり」「本校に於ける教授は一般に実用を主とし、殊に技術に関する学理実習の両方面は、全然実際的にして、業務に就きて後出会うがごとき教材を精選し、その相互の連絡に関しては十分に思慮を加えたり」とあり、この姿勢は百十年経った現在でも何ら変わるところがないと断言できます。

しかし、本校はけっして平坦な道をたどって現在に至っているわけではありません。大正12年の関東大震災の際は、築地の校舎は全焼し、焼け跡に仮校舎を建てて実習をおこなった時期がありました。日中戦争時から第二次世界大戦に至る時期においては出征する先生、士官学校や兵学校、予科練に進路変更する生徒の姿がありました。先生方の努力もあり、空襲で校舎が焼けることはありませんでしたが、戦後、企業に拠出したりGHQに接収されたりして工作機械が不足し、実習に不都合が生じた時期もありました。また、校地の移転問題や現校舎建て替えの際の先端技術教育センターとの併設問題など、多くの苦労があったということも聞いています。こうした苦労を先人たちが乗り越えて、110年目を迎えることができたことを忘れてはなりません。

さて、これからの時代の本校の役割は何か、本校はどうあるべきか、ということを考えていかなければなりません。近年、急激なコンピュータとネットワークの発達は私たちの生活を大きく変えてきました。文部科学省が昨年末に発表した中央教育審議会答申には、「子供たちの65%は将来、今は存在していない職業に就く」という、ニューヨーク市立大学大学院センター教授キャシー・デビッドソン氏の予測や、「今後10年〜20年程度で、半数近くの仕事が自動化される可能性が高い」というオックスフォード大学准教授マイケル・オズボーン氏などの予測、「2045年には人工知能が人類を越える「シンギュラリティ」に到達する」という指摘を掲載しています。しかし、こうした将来の予測が困難な時代であるからこそ、しっかりとした知識と技術に裏打ちされた教育が必要となってきています。そして、その教育の成果として、社会の在り様、ライフスタイル、それに伴う必要な「ものづくり」や「デザイン」をきちんと提示すれば、それがこれからの社会のスタンダードとなっていくに違いありません。すなわち、都立工芸生が、本校で学んだ技術と知識によって、これからの社会の将来像を提示できるようになることこそが、創立以来これまで、日本の「工業」「工芸」「デザイン」をリードしていた本校の役割ではないか、と私は思います。
もちろんこのことは、けっして容易なことではありません。しかし、都立工芸生の心意気として、より困難な開拓者の道を選び、創造性や感性、発想力によって、新たな時代をつくり出していくことが大切だと思います。そして、優れた「ものづくり」や「デザイン」を生み出すことによって世界の人々に平和と幸せをもたらしてきたいものです。

結びとなりますが、創立110周年を期に、本校の益々の発展と、本校生徒諸君、卒業生の皆様の活躍を祈念するとともに、全都立高等学校の発展と都立高校に通う生徒全員の幸せを願い、また、創立110周年記念式典に御出席いただきました皆様の御健勝をお祈りいたしまして式辞といたします。

2017
05.18

室町時代の絹織物

娘と社会(歴史)の中間テストの準備を一緒にしていたときのことです。室町時代の産業の発達についてノートに書かれていました。そこには「絹織物の発達…西陣織(京都)や博多織(福岡)」と書いてあったので、このことを先生はどんなふうに授業で教えてくれたのか尋ねてみると「別に詳しく教えてくれたわけではなく、黒板にそういうふうに書いたので写した」と娘は言いました。
絹は紀元前3000年ぐらいに中国で絹糸の生産が始まっていたと言われていて(他の説にはもっと前の紀元前5000年という記述もあります)、漢の時代にはすでに養蚕のやり方ができ上がっていた、と調べると出てきます。御存知の通り、絹糸はカイコが吐く糸から作られるのですが、その昔、中国でどのようにしてカイコガを発見して、その吐く糸から絹糸をつくる方法を発明するようになったのか、よく分かっていないようです。現在カイコガは完全に飼育化された昆虫で、野生のカイコガはすでに存在していない、飼っているカイコを野外の桑の木に放ってもすぐに全滅してしまい、人間の飼育環境でなければ生きていくことができない昆虫となっているということでした。小さな芋虫がつくった繭から糸が取れて、それを衣服に加工しようと考えた古代中国人は、きわめて偉大な発想力の持ち主であったと考えられます。
絹は中国からチベット、インド、アラビアを経てヨーロッパに運ばれました。中国でしか採取できない謎の糸を求めて、西方の商人たちは乾燥した広大な砂漠を、ラクダを連れて旅をしてきました。そして逆に西方にしか産出していなかった様々な品々を中国に持ち込みました。例えば「紅(べに)」は、エジプトを原産とするベニバナから抽出される赤い染料ですが、絞り出した色素から赤だけを取り出す製法に工夫がいること、膨大なベニバナを必要とすることから、絹と同様に非常に高価な商品でした。ガラスは高い温度で珪石などを焼くと、透明質で固い物に変化することがメソポタミアで発見され、透明で美しい器として中国にやってきました。
絹が日本に渡って来たのは弥生時代だったと言われています。様々な弥生時代の遺跡から絹織物が発掘されているそうですが、やや時代が下って古墳から発掘されている絹織物の織り方が中国の絹織物とは異なった糸の使い方であることから、日本独自の絹織物がこのときにすでに織られていたと考えられています。大化の改新以後、律令政治が成立するにあたり、絹は租庸調のうちの正調として組み入れられているので、一定量の生産が各地で行われていたのではないかと思います。
平安時代、貴族文化が華やかな頃、女性装束として着用された十二単は絹織物であったということです。色の組み合わせに季節を表す厳格なルールが存在し、染めの技術の向上もさぞかし重要だったと思います。十二単は20kgもあったと言われていますが、当時の日本のカイコである「小石丸」という種の吐く糸は細く、実際の十二単は8堋度だった、という説もあるようです。
平安時代の終わり頃の平家支配の時代から鎌倉時代にかけて、当時の中国である宋と日本との間で日宋貿易が行われ、日本に輸入されたのは宋銭とならんで、陶磁器や絹織物でありました。モンゴルによる中国支配後に成立した明と日本とは1400年代以降、日明貿易が行われ、日本に輸入されたのは、やはり明銭(永楽通宝)とならんで生糸であったということです。こうしたことをいろいろと考え合わせると、日本で生産される絹糸と絹織物は、中国から輸入される絹糸や絹織物と比べて品質で見劣りがしていたに違いなく、日本の絹織物の品質向上は、江戸時代になってからようやく図られていったのではないかと思われます。
西陣とは応仁の乱のときの山名宗全を中心とした西軍が陣を張った場所ということですが、応仁の乱後に絹織物の手工業者が集まるようになり、この地名となりました。博多織はもっと歴史が古いようで、宋から帰国した人が絹織物の技術を持ち帰って伝えたのが発祥であるようです。
私が娘のノートを見てひっかかったのは、これら室町時代から盛んとなった西陣織や博多織の絹織物の原料は一体どこから来たのか、ということです。国内で生産されている絹糸であったのか、明から輸入された絹糸であったのか。国内で生産されていたとしたら、どうやって糸を博多や京都に運んだのか。明からの輸入であったとすれば、海路の安全をどうやって確保したのだろうか。京都は応仁の乱で焼け野原となっていたでしょうし、すでに下剋上の時代となり交通の安全が図られていたかどうかも分かりません。また、海路においては瀬戸内海は海賊が横行し、そうしたことを題材とした小説も出ているぐらいで(和田 竜「村上海賊の娘」新潮文庫)また、中国の沿岸を倭寇が荒らし回る時代となってきていて、交易船の安全を確保するのも相当に難しかったのではないかと思われます。
そうした困難な環境にあっても美しい絹織物を必要とした人々がいて、その人達のために絹が織られていたということを印象深く感じました。困難で殺伐とした時代であったからこそ、人々は美しいものを求めたのかもしれません。

2017
05.06

最近電車の中でマンガ雑誌を読んでいる人を見ることがなくなった

先日、知り合いの先生と雑談をしていた時に、「そういえば、最近電車の中でマンガ雑誌を読んでいる人を見ることがなくなったねえ。」ということをおっしゃいました。
確かに一時代前の通勤電車では、30代ぐらいのサラリーマンを中心に、少年ジャンプやヤングマガジンといったマンガ雑誌を読んでいる人が大勢いました。少し年齢が上の層の人たちは、新聞を小さく折りたたんで読んでいました。そういう人たちが朝の通勤電車で読んでいる新聞は日経でしたが、帰りの電車では夕刊フジを読む人が多数派でした。
少年ジャンプや少年マガジンの読者層よりも年齢が上の層をターゲットとしたマンガ雑誌も数誌あって、「ヤンマガ」とか「ヤンジャン」とかの略称で呼ばれていました。インターネットで検索してみると、10年ぐらい前の書き込みに、電車の中で「よい大人」がマンガ雑誌を人前で読むことへの批判的な書き込みがいくつもヒットします。新聞では、外国人からなぜ日本人のビジネスマンはマンガ雑誌を持ち歩くのかという質問を記者が受けたというコラムを読んだ記憶もあります。
その当時は、日本人の知性と教養の低下が、電車の中でのマンガ雑誌の読書につながっているというような受け取り方を感じていましたが、今になって思えば10年ぐらい前までは、日本の最もクリエイティブな才能がマンガ界に集まり、優秀な作品を次々と生み出していたということなのかもしれません。
マンガ雑誌の発行冊数は、この10年ぐらいで大きく落ち込んできているようです。「コロコロコミック」のように、あまり発行冊数が落ち込んでいないマンガ雑誌もありますが、「少年サンデー」や「なかよし」のように、3割、4割にまで落ち込んでいる雑誌もあり、全体として大きく減少傾向にあります。
かつて電車の中でマンガ雑誌を読んでいた人たちは、現在スマホでゲームをやっていたり、LINEで誰かと連絡を取っていたり、オンラインニュースを読んでいたり、いずれにしてもスマホに移行してしまいました。ただしクリエイティブな才能もこうした電子化業界に移行したかどうかはよくわかりません。かつてのクリエイティブな才能が生み出したマンガは、アニメの現在として活用され、日本が発信する文化として世界中で認知されるようになりました。電子化業界にクリエイティブな才能が移行していて、それが何らかの日本の発信する文化にまで成長するかどうかはこれからだと思います。

2017
05.01

人形とロボット

都立工芸の卒業生で高名な方に川本喜八郎氏という方がいらっしゃいます。
この方は戦前の府立工芸学校を卒業後、現在の横浜国立大学を経て、人形作家、アニメーション作家として活躍をされました。私の記憶と印象では、NHKの人形劇である「三国志」「平家物語」が圧倒的です。ドラマの登場人物は生きているかのごとき人形たちで、愛憎、別離、戦闘など、さまざまな場面が演じられていたことを思い出します。
喜八郎オフィシャルサイトには、人形を制作する苦労についての記述があり、例えば回想「三国志」には『三国志に登場する名のある人物だけでも3000人位いると云われているが、NHK人形劇『三国志』では、 その中で名のある人物約200人を作った。文楽では、カシラにそれぞれ若男、源太、文七などと名前が付いていて、 役柄に合わせて使うカシラが決まっている。つまり、非常に高度な典型化が出来ている。 三国志では、その典型化をさらに個のレベルまで進ませて、玄徳は玄徳のために生まれてきた、 周瑜は周瑜のために生まれてきた、というふうに、彼等が生まれてくるのをお手伝いする、という作業を続けた。 三国志漬けの毎日で、苦しさも楽しかった。孔明のカシラはなかなか生まれてくれなくて、出来上がってみると、 「私は違うよ」とのたまい、4度作り直して、くたくたに疲れ果てた夜中に、やっと「私が孔明だ」と名乗りをあげてくれた。 乱世の群雄たちも、つぎつぎに生まれてきたが、今となっては、個々にどんな状態で生まれてきたのか、 思い出すのも難しい。』といった興味深い内容が掲載されています。
喜八郎オフィシャルサイトにもありますが、日本には文楽という独自の人形劇があり、人形づくりの高度な技術に加えて、演じる際の所作、仕草をどのように表現するのか、そのために人形をどのように操作するのか高い洗練された技術が継承されていて、観客を魅了する伝統芸術となっています。日本には人形に感情を移入して、あたかも生きている人間として感じ取るような文化的な基盤が存在するのかもしれません。
 さて、昨日、日本テレビの「バンキシャ」という報道番組で「オリヒメ」というコミュケーションロボットの紹介が放送されていました。オリヒメはそれ自身に搭載されたコンピュータのコントロールによって動くのではなく、タブレットを通して人間が操作して動くロボットでした。コンピュータを搭載してその判断で動いたり、会話したりする「ペッパー」のような種類のロボットではなく、オリヒメは高さが21cmで上半身のみのロボットで、自分の「分身」「替わり」として機能する分身ロボットであるということです。放送では、入院している子供が授業を受けるため、入院している病院から離れた場所でオリヒメが子供の替わりに授業を受け、その画像が子供の前の画面に映し出されている様子や、ALS(筋萎縮症側索硬化症)の方が自分の気持ちを表現する手段としてオリヒメを使用する様子が放送されていました。オリヒメを開発した吉藤健太朗氏は小学校のときに3年半引きこもっていて、自分の替わりに学校に行ってくれるアバターが欲しいと思ったことが、オリヒメをつくる動機となったそうです。
ロボットも人形の一形態ということができるので、そのロボットに気持ちや思いを相手に伝える機能を付与するといった発想はもしかしたら、日本の伝統的な考え方の線上にあるのかもしれない、といったことを感じました。

Copyright Tokyo Metropolitan KOGEI High School. All rights reserved.
先頭に戻る