2017
11.24

ドゥシャン カーライについて

 スロバキア大使館にて、ドゥシャン カーライというスロバキアのアーティストについての講演がありましたので、聞きに行きました。お話してくださったのは、千葉県内の高校の美術の先生である江森清先生で、長年ドゥシャン カーライと親交があり、毎年のようにカーライ宅に泊まりに行き、カーライの作品を蒐集している先生でした。
カーライは世界的には絵本画家として知られていて、日本においても絵本画家として紹介されているようです。例えば新潮社から出版されているのは、カーライが挿し絵を描いた「不思議の国のアリス」ですし、1988年に国際アンデルセン賞を受賞しているなどにより、その名が知られたという経緯もあります。
しかし、カーライの創作活動は、ファインアートからデザインまで、きわめて多岐にわたっていて、絵本画家といった限られた世界のみではないことが、お話を聞いてとてもよく分かりました。現代のクリエイターやデザイナーは、創作活動が旺盛であればあるほど、様々な分野に活動の幅を広げるように、カーライもいろんなことに貪欲に取り組んできたようです。
カーライの彩色画は細い筆を用いて、細かいタッチで彩色していく技法で、スーラのような新印象派の点描の考え方に近いそうです。また、版画に関しては、木版、銅版、リトグラフ、シルクスクリーンなどあらゆる版画作品を制作していて、さらに、スタンプや切手などのデザインも手がけているとのことでした。
私はカーライのことをこれまで全く知りませんでした。カーライだけでなく、私たちは東ヨーロッパのアートやデザインが、どんな状況にあるかほとんど知識がありません。そのことをスロバキア大使館の人に話したら、スロバキア人も日本のことをほとんど知らない、という返事が返ってきました。
講演の後は、親睦パーティでしたので、スロバキア大使館の人たちに、カーライに対するのスロバキアの人たちの受け止め方を聞いてみたところ、ある人は、カーライは伝統的なスロバキアの文化を継承しているアーティストである、しかし、今の若者は世界で受け入れられるようなアートやデザインを好んで制作していて、カーライのようなアーティストは減っている、と言いました。別の人は、カーライは伝統的なアーティストではなく、独特な表現方法を選択して創作活動を行っていて、想像力による独自な世界を作り出した作家である、シュールレアリスムの影響を受けているのではないか、と言いました。(これらの会話は英語で行われたので、私の拙い英語力では、正しくはその人がそう言った気がする、というレベルです。)
ただ言えることは、カーライはとても勤勉なアーティストで、細かく根気がいる作業(デザインやドローイング、デッサンといった工芸の生徒が毎日行っている実習と同じもの)を全く厭うことなく、創作を続けているという事実です。この講演会を御紹介下さった本校卒業生の保護者である高橋さんが言うことには、スロバキアの人々はとても勤勉な人たちで、明治以後に日本に入ってきた様々な技術は、実は東ヨーロッパの人々からもたらされたものである、ということでした。カーライの創作態度は、もしかしたら国民性に由来するものかもしれません。

12月15日(金)から工芸高校図書室で、ドゥシャン カーライ展を行います。江森先生が所蔵するコレクションの一部を展示します。興味がある工芸生は見に来てください。12月21日(木)までやっています。

2017
11.08

キャッチコピーをつくろう

先日、全日制マシンクラフト科の仲三河先生の研究授業が、2階コンピュータ室で行われました。授業のテーマは「キャッチコピーをつくろう」。情報技術基礎の単元「ポスター制作」の中で、ポスターに書かれているキャッチコピーの重要性を知ることを目的とした授業でした。

実は私も20年前、キャッチコピーを教材として、授業で扱ったことがあります。国語表現の中で、ことば一語一語のもつ役割や大切さについて、キャッチコピーをつくることで学習しようと考えました。1980年代から90年代はポスター広告の力が今よりも強力だった時代で、ポスターに載せるキャッチコピーは流行語になるなど多くの人たちに影響を与えていました。広告ポスターはテレビ等マスメディアにおけるコマーシャルと連動し、多くの人々の目に止まるように工夫されていました。そのため、優れたキャッチコピーをつくることができるコピライターは引っ張りだこで、例えば糸井重里氏といった有名人は時代の寵児として大活躍していました。糸井氏がつくったキャッチコピーはとても数が多く、つくられてから30年以上経っていますが、生徒諸君もどこかで聞いたことがあると思います。「いまのキミはピカピカに光って」「おいしい生活」「インテリげんちゃんの、夏休み」「くうねるあそぶ」など例を挙げればキリがありません。
私の授業では、こうしたかつて広告に使われて人口に膾炙したキャッチコピーをいくつも例に挙げて、一体何のコピーであるか空欄に記入する学習プリントを作りました。例えば「スカッとさわやか」「ファイト一発」「腕白でもいい」「お口の恋人」「はやい やすい うまい」など、こちらもいくらでも上げることができます。その後で実際に学校のキャッチコピーをつくってみようということをやりました。

さて、仲三河先生の授業でも、最初に実際に疲れわれているカロリーメイトの広告ポスターを使いました。そのデザインは自転車に乗った男子高校生がカロリーメイトを口にくわえ、「すばらしい空腹」というキャッチコピーが載っているものです。先生はイラストレータにポスターを取り込み、かつこのキャッチコピーを消して、「自分ならどんなコピーをつけるのか考えよう」という質問をしました。生徒たちは話し合いをしながら、キャッチコピーをつくり、生徒たちからは「今日をつくるチカラ」「大好きなあの子に会う前に。」「食事も青春も一瞬だ!!」といいう3つのコピーが発表されました。先生はその場でイラストレータを操作して、カロリーメイトの広告ポスターの中に生徒のつくったキャッチコピーを載せてスクリーンに映し出しました。工芸の生徒のつくったキャッチコピーのほうが、オリジナルよりもできが良いようにも感じました。先生はキャッチコピーをつくってポスターに載せてみると、キャッチコピーによって広告ポスターに描かれたストーリーが全く変わってしまうことを指摘しました。男子高校生がなぜカロリーメイトを口にくわえ自転車に乗っているか?カロリーメイトが彼にとってどんな役割を果たしているのか?キャッチコピーによって全く異なってしまうことを生徒たちはよく理解し、キャッチコピーの広告で果たしている役割の重要性を納得できました。
工芸高校ではキャッチコピー等を考える授業は、マシンクラフト科だけでなく他科でも行われており、先生方からいろんな教材でアプローチしてもらっていると思います。こうした授業を通してことばの力の大切さを実感してもらいたいです。

2017
10.31

2017工芸祭御礼

工芸祭には台風の大雨にも関わらず、5500人を超える大勢の方に御来校いただき、本当にありがとうございました。特に日曜日は朝からの大雨で、工芸高校までいらっしゃるだけで大変だったと思います。この場を借りて厚く御礼申し上げます。
さて、今年の工芸祭のテーマは、「大正ロマン・明治レトロ〜110年前の時代〜」でした。都立工芸は創立明治40年で、今年が110周年にあたり、この5月に創立110周年記念式典を挙行したことにちなんだテーマを設定しました。展示や装飾、あるいは展示案内の生徒の服装など、テーマに沿ったものとなっていたことに、お気付きいただけたのではないかと思います。
こうしたテーマに沿った展示や装飾を見ながら、明治レトロや、大正ロマンをイメージできるデザインはとても作りにくいかもしれないと思いました。都立工芸が創立した場所は銀座すぐ隣の築地万年橋のたもとでした。明治40年頃の東京銀座の写真は残っていて、インターネットを検索すれば当時の銀座の様子はすぐに見ることができます。また、図書資料を調べれば、街行く人々の服装、風俗も見ることができます。けれども、私たちの知識の中には明治終わり頃から大正初めにかけて、街の風景やそこを歩く人々についての確たるイメージがあまり無いのです。明治初めの文明開化期であれば、鹿鳴館での洋装、ドレスを着た婦人たちの姿が思い浮かびますし、昭和初期の戦争期であれば、男性は国民服やゲートル、女性は木綿モンペの姿が思い浮かびます。最近、大阪の高校がダンスの全国大会で「バブル」というテーマで踊った「ダンシングヒーロー」がウェブ上で話題となっていますが、お母さんやおばあちゃんに用意してもらったというステージ衣装は、バブルファッションはかくあるものというイメージを見事に具現化していました。
大正期は「モガ」「モボ」の時代ではありますが、私たちの知識の中にはどんなファッションであったか定着していません。インターネットで検索すると、いまから100年前の日本の女性たちが、とても素敵なおしゃれをして銀座の街を歩いている様子がうかがえます。また、女子生徒(女学校)の通学服は、大正年間は和装(海老茶式部スタイル)が中心で、関東大震災後に洋装(セーラー服)に切り替わっていきました。この時代の女学生を描いた漫画「はいからさんが通る」が、大正期の風俗で一番共有されているイメージかもしれません。そんなわけで、生徒諸君が明治レトロ、大正ロマンを表現するにとても苦労した形跡がいろんなところにありました。時代を表現するとは難しいものです。

展示されていた生徒たちの作品は、今年も力作が並び都立工芸のものづくりやデザイン教育の質の高さを感じていただけたと思います。特に今年の工芸祭は(もしかしたら私がこれまで気が付いていなかっただけかもしれませんが)、製図とかデッサン、平面構成、パターン構成といった基礎基本の実習作品の質がとても高かったです。これらの基礎基本の実習作品は、生徒諸君が都立工芸の専科の先生方から、いろいろときめ細かく指導を受けながら完成させた作品です。科学の研究には基礎研究が重要であるように、ものづくりとデザインには基礎基本の実習がとても重要です。これらの作品の質の高さが、今後の工芸生の発展力、展開力につながっていくと思いました。
完成された作品だけではなく、科によってはデザイン帳、クロッキー帳等を展示している部屋もありました。最初に思いついたイメージが乱雑に書き込まれていたり、スケッチやデッサンのアウトラインが描かれていたりして、まだ作品とは呼べない段階を見ることができました。しかし、混沌としている段階での生徒たちの発想がとても素晴らしく、さすが工芸生であると自慢したくなりました。パワーやエネルギー、突破力のようなものが満ち溢れていて、作品として完成を目指す中で、このパワーやエネルギーをさらにどうやって高めていくか、生徒たちにはがんばって欲しいと感じました
販売や体験も今年も大勢の方に利用していただきました。生徒諸君が制作したものを大勢の方に使っていただけるのはとても嬉しいことですし、光栄なことです。
生徒たち一人一人がそれぞれの役割を果たし、工芸祭を盛り上げていました。生徒諸君は工芸祭の準備の中で学んだこと、習得した知識や技術はこれからの実習で生かしてくれると思います。そして。最上級生は全日制も定時制も卒業に向けて課題制作を完成させていかなければなりません。全日制は卒展があります。より高いレベルでの作品の完成を期待できますので、卒展にもどうぞ御来場ください。(2018年3月2日〜3月4日 於東京都美術館)

2017
10.24

水辺の仏像

九州のある地方で、今年の夏の大雨の後、今まで見たことがない仏像が川底から発見された、というニュースがありました。江戸時代に行われた護岸工事のときに、堤防が崩れないようにと埋められていた仏像が大雨で流されたと推測されるという話です。
川や沼に関わる仏像の話はいろいろと残っています。例えば舟地蔵という舟にお地蔵さんが乗っている仏像があります。神奈川県藤沢市にある舟地蔵は、戦国時代に北条早雲が付近の大庭城を攻めたときに、城の周りの沼地の干上がらせ方を教えてくれたお婆さんを、秘密が漏れることを恐れて殺していまい、それを哀れんだ人々が供養するためにつくったという言い伝えがあるそうです。
別の舟地蔵の話もあります。奈良の興福寺隣の猿沢池南側にある率川(いさかわ)という小さな川にある石橋の下には、舟形の台座にいくつもの石仏が祭っているそうです。幕末のころ、この辺りの河川工事をした際に、埋もれていた約40体の石仏が見つかり、ここに集められて祭られるようになったのだそうです。率川地蔵尊またはただ単に「舟地蔵」と呼ばれているということでした。
京都には川地蔵という行事があるそうです。お盆に河原で石を積んでお地蔵さんをつくり、霊をお迎えする行事です。14日に6体の川地蔵を作って先祖の霊を迎え、翌15日朝に鉦(かね)を鳴らしてお参りするのが習わしだそうです。川地蔵さんは河原の石を見つくろい、体に見立てた長めの石を6つ立て、それらの上に、頭(笠)に見立てた小石を3つずつ重ねるといいます。このため、体用の石は、てっぺんが平らな石を探すそうで、石の大きさや形で6体はふくよかだったり、ちょっと背が低く見えたり、石の傾きで、表情も異なるそうです。三途の川を渡るときに、子供たちが賽の河原で石を積み上げるところへ鬼が来て石を崩してしまうので、子供たちはお地蔵さんの衣に隠れて守ってもらうという、賽の河原のお地蔵さんの話にどこか似通っています。
私たちの身近にある浅草寺の観音像は、推古天皇36年(628年)に隅田川で漁をしていた兄弟の網にひっかかっていたのを発見されたことになっています。観音像は一寸八分(約5cm)の小さな仏像で黄金製だそうですが、この観音像は秘仏となっているため、誰も見たことがありません。Wikipediaによれば、明治2年に役人が来て調査を行ったところ、本尊はたしかに存在していて、奈良時代の様式の聖観音像で、高さ20cmほど、焼けた跡がうかがえ両手足がなかったということです。ただし、このWikipediaのテキストが何かが分かりませんので、事実確認ができません。
日本に初めて仏像が渡ってきたのは、日本書紀によるとによると、欽明天皇13年(552年)のことです。百済の聖明王により釈迦仏の金銅像が経典とともに献上されました。欽明天皇が、仏教を信仰の可否について群臣に尋ねたところ、物部氏は反対しましたが、蘇我氏は賛成しました。そこで天皇は仏像と経典を蘇我氏に下げ与えたので、蘇我氏は仏像を拝んで仏教に帰依したところ、疫病が流行ってしまったそうです。物部氏は仏像を拝んだことで疫病が流行ったと考え、仏像を「難波の堀江」すなわち、大阪の湿地帯に捨ててしまいました。(この「難波の堀江」の位置と考え方については諸説あるようです。)物部氏と蘇我氏との争いは物部氏が滅びるまで続けられ、蘇我氏が勝利したことにより、日本では仏教がこの後広く信仰されることになりました。
長野県に善光寺という有名なお寺があり、その御本尊はこの「難波の堀江」に捨てられた仏像を、本田善光という人が発見して自分の故郷にもって帰った仏像ということです。浅草寺と同様に秘仏とされていて、誰も見たことがありません。7年に一度の御開帳のときには、御本尊の替わりの前立本尊が開帳されています。もっとも、こちらもウェブ上では江戸時代に本尊を確認したという記事がありますが、テキストが分からないのでこれも事実を確認できません。
こうやって、仏像と川や沼との関連を拾っていくと、両者の関係性は高いような気がしてきます。日本列島は雨が多く、水害に見舞われることがある反面、日照りとなると干上がって水不足に人々は苦しむことも多かったのではないかと考えられます。人々は仏像に長雨のときは雨上がりを祈り、旱魃のときは雨乞いをしていたと想像します。宮澤賢治の「雨ニモマケズ」の詩の一節である「ヒドリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ」も思い起こされます。
日本に渡ってきた仏教と仏像は日本の風土に習合して土俗的に発展していきました。運慶が彫った四天王とはまた違った仏像の在り方でありました。九州で見つかった仏像がどのような願いや祈りを込められているのかを、想像するのは楽しいものです。日本中にはまだまだ水辺に埋まって眠っている仏像が数多くあるに違いありません。

2017
10.23

運慶展

運慶が最も優れた仏師であることに異存がある人は少ないでしょう。
鎌倉時代の初期に、幕府の武士たちに依頼され、あるいは興福寺や東大寺の復興のために、手がけたその仏像は、芸術性の高さと独創性において日本の彫刻史上類を見ないものです。
運慶の父親は康慶という仏師であり、奈良仏師として興福寺の復興に大きな業績を残した人でした。平安時代末期は天皇家や摂関家の勢力が衰え、政治的実権を握った武士の時代への過渡期で、武士の棟梁である源氏と平家の武力衝突の時代でした。こうした武士の勢力争いには京都周辺の僧兵を擁した京都周辺の大寺も関与し、争いに巻き込まれていきました。平重衡による古都奈良(南都)への攻撃がなぜ行われたのか、どのような経緯で東大寺と興福寺が焼き討ちになったのか、調べてみると偶発的な要素もあるようですが、東大寺や興福寺が焼失することは、きわめて大きな歴史的文化的損害であると同時に、人々が精神的な拠り所を失う大事件でありました。
この南都焼き討ちの後、高倉上皇の崩御、平清盛の逝去が続き、源氏の挙兵、源氏の軍勢の上洛によって平家は壇ノ浦での滅亡への道を歩み始めます。一方焼け野原となった東大寺と興福寺では僧重源による復興運動が始まり、後白河法皇や新しい権力者である源頼朝による支援などにより、徐々に立ち直るようになりました。その際に腕を振るったのが、康慶とその息子運慶でありました。
平安時代中期から後期の代表的な仏師は定朝という人です。11世紀の初期から中期にかけて活躍した仏師で、代表作は宇治平等院の本尊である阿弥陀如来坐像です。平等院は藤原頼通(藤原道長の後継者)によって建立され、その鳳凰堂は十円硬貨のデザインにもなっています。阿弥陀如来坐像は上品なお顔立ちと全身が柔らかな曲線を特徴としていて、全体として彫りが浅く、身にまとっている衣も薄く表現されていて、いかにも平安貴族が好みそうな優雅な仏像です。定朝の仏像は定朝様(よう)と呼ばれ、仏像彫刻の主流となっていきました。
康慶の作品が最初に現れたのが、12世紀半ばであったので、定朝からおよそ100年後のことです。「運慶展」には康慶の作品がいくつか展示されています。康慶作の四天王立像(興福寺)を見ると、運慶に見られる肉体的表現やリアリズム、写実性がすでに出現しており、彫りが深い仏像となっています。康慶が息子の運慶に大きな影響を与えたと言って間違いありません。また、康慶作の法相六坐像(興福寺)などは一人一人の僧の微妙な表情までを彫り込んであり、今にも立ち上がって動き出しそうな錯覚まで覚えます。運慶の傑作の一つである世親菩薩立像・無著菩薩立像(興福寺)に表現された人間のリアリズムにつながるものです。
このように康慶から引き継がれた仏像の肉体的な表現やリアリズム、写実性は、運慶においてさらに大きく発展しました。世親菩薩立像・無著菩薩立像や四天王立像(興福寺)毘沙門天立像(願成就院)は一見の価値があります。圧倒的な存在感で見る人に迫ってきます。ではなぜ、康慶や運慶はこうしたリアリズムや写実性を重要視したのでしょうか。いろんな理由が推測できると思いますが、彼らの活躍した時代が源氏と平家が武力衝突をしていた戦乱期であったこと、東国の武士たちが信仰の対象をより具体的で分かりやすい仏像を求めたことが理由ではないか、と考えます。戦乱期の人々にとって、仏法を護持する四天王は誰よりも力強くなければなりません。正邪を正し、戦さを終わらせることができる仏像を人々は求め、その思いが運慶の作品につながっていったのでしょう。そして、その力強さを表現するには、よりリアリズムや写実性が必要でした。
康慶の弟子でやはり優れた仏師に快慶がいます。快慶はよく運慶と対比されますが、やはり写実性の高い作品となっています。けれども、その作品は運慶の作のように生々しい人間が感じられるのではなく、人間のもつ精神性の高さや清らかさが表現されており、運慶とは異なった人間のもつ面を仏像に託しています。戦乱期の中だからこそ、人々は人間のもつ精神の気高さを仏像に求めたに違いなく、快慶はそうした人々の求めに応えた仏像を彫りました。
残念なことですが、運慶のもつ強烈な個性は後継者に引き継がれることなく廃れました。運慶展では運慶の子供たちの作品も展示されていました。運慶の子、康弁の作である天燈鬼立像・龍燈鬼立像(興福寺)が展示されていて、その強烈な個性には目を引くものがありましたが、運慶の後継者であった湛慶の作品には繊細さが目立つようになり、運慶の作がもつ生々しい人間臭さのようなものは感じられません。その意味において、運慶は突出した存在です。なぜ運慶のもつ個性が後継者たちに引き継がれていかなかったのか、ということも仏像研究、彫刻研究において重要なテーマであるように思いました。
「玉眼」のことにも触れておきます。仏像をより生きた人間のように表現する技法として、運慶展では玉眼が説明されていました。仏像の目に水晶を入れてキラキラ輝かせ、生きた人間のように感じさせる技法です。こうした細かい技法により運慶の仏像がより写実性と力強さをもって、見る人を魅了することを感じます。
運慶展はとても混んでいますが見る価値のある展覧会でした。

2017
10.20

新しい仕事と資金の集め方

2学期始業式では「Youtuber」を例に挙げて、これから生まれてくる職業や仕事の話をしました。

新しい職業や仕事は一体どこから生まれてくるのでしょうか?

今までになかった新しい仕事を始めた人の話を聞くと、「へえ、なるほどね」と思うことが多く、アイディアはいろんなところに転がっているということを強く感じます。そこらに転がっている仕事の素材を、実際に事業として立ち上げ、仕事に結びつけることができるからこそ、起業家は、多くの人たちから感心されるような新しい仕事を生み出すことができるのでしょう。

ちょっと前に、テレビで放映されていた新しい仕事は、お客さんをインターネットで募集するレストランでした。ホームページに日時と場所(都内の交通の便がいいお洒落なマンションの部屋)、料理の内容、値段をアップし、それを見た人がインターネットで申し込みます。当日は申し込んだ何人かのお客さんがやってきて、初対面ではありますが、お料理の話や、お料理にまつわるいろんな話を互いに楽しみながら会食をするというレストランでした。イベント屋のようでもあり、パーティを企画する会社のようでもあり、今まで無かったけれども、こういうのがあったら楽しいなあと思って、ある女性が始めたことが仕事として成立していました。

アイディアを実際に仕事として成立させるためには資金が必要です。やっぱり先日テレビを見ていたら(テレビの話ばかりで恐縮ですが)、「クラウドファインディング」という新しい資金の集め方を紹介していました。新しく仕事を立ち上げたい人(いわゆる起業家と言われるような人から、企業の中にいて企画の立ち上げを任された人まで様々な人たち)が、クラウドファインディングの会社に資金を集める依頼をします。すると、その会社は依頼があった立ち上げたい仕事の内容を審査して、大丈夫と判断すればウェブ上に目標金額を設定してアップします。ウェブを見た人たちの中で、その新しい仕事の立ち上げに投資したい人が、小口の資金(5万円からだそうです)を提供します。目標額を達成したら募集を締め切り、仕事を立ち上げたい人の起業の資本とするという方法です。

先日始業式でお話したVALUもYoutuberが資金を集める新しい方法で、動画を作成する資金をYoutuberその人に対して投資する方法でした。

かつて日本経済が強かった頃(特にバブル期と言われた頃)、投資はより大きな利益を求めて不動産に集中しました。その時代で最も成功しそうで儲かりそうな事業に資金は集まってきますので、今は東京2020に向けたインフラ開発や整備にも投資されるようになってきているようですが、以前と同様に不動産にも投資されるようになり、東京周辺では地価やマンションの価格が大きく上昇しています。しかし、時代の先端をいくような事業にどれだけ投資されているか、という点では日本は十分とは言えないと感じます。

ベンチャーと呼ばれるような、小さな新しい会社が始める事業は、失敗するかもしれず儲からないかもしれないけれども、もしかしたら大当たりするかもしれない、というような内容です。こうした投機性の高い事業に対しては、既存の金融機関が融資することはありませんし、個人が投資するシステムもありませんでした。しかし、クラウドファインディングは、新しい仕事を資金面で応援するきわめて有効な投資方法となっていきそうで、その意味でクラウドファインディングそのものが、新しい仕事の部類に入ると思います。

東京2020に向けて、世の中にある剰余の資金は投資先を探し始めています。けれども、経済が好調な割には、賃金に反映されていないので、恩恵を受けるのは、新しいお金の流れを巧みにつかまえることができる人に限定されています。こうした新しいお金の流れが、社会を支える人たちの勤労意欲や道徳心を損なわなければよいと思います。

しかし一方で、こうした新しいお金の流れと、今までに存在しなかった仕事とで密接な関係ができ上がりつつあるのも間違いありません。時代の先端をつかまえることができる鋭い感覚は、お金の流れをしっかりとつかまえることや新しい仕事をつくり出すことと、新しいものづくりやデザインを創造することとで、どこか共通で似た能力であるように思えます。

2017
10.14

仕事とプライド

「働く」とは本来「はた(傍、端)=周りの人たち」を「楽にすること」を指すことばです。したがって、職業に就いて仕事をするということは、すなわち社会に役に立つことを行うことで報酬をいただくことです。「世のため、人のため」になるからこそ、自分の仕事にプライドをもつことができるわけですし、一生懸命に働くこともできるわけです。
アメリカの国務長官を務めたコリン・パウエルの著作「リーダーを目指す人の心得(飛鳥新書)」の中に、エンパイアステートビルの清掃担当者の話がありました。ニューヨークにあって世界で最も有名なこのビルには、毎日大勢の観光客が訪れます。そのエンパイアステートビルを紹介するテレビ番組があったそうで、テレビのインタビューは清掃担当者にまで及んだということです。そのインタビューで「我々の仕事は、明日の朝、このすばらしいビルに世界各地から多くの人が訪れたとき、ビルがぴかぴかに光るほどきれいで美しい状態であるようにすることです。」と清掃担当者が答えたそうです。このエピソードは仕事にプライドをもつことの大切さを端的に表していると思います。
新しい仕事や職業が生まれて、今の子供たちの多くが現在存在していない仕事や職業に就くという予測を、私はこれまで何回が紹介してきました。しかし、生まれたばかりの新しい仕事や職業のすべてが社会で定着して、大勢の人たちの雇用を作り出すわけではありません。例えばYoutuberは世界でせいぜい100人か200人もいれば十分でしょう。しかも10年後この仕事が同じシステムで存在しているかどうかも分かりません。新しい仕事や職業に就き、誇りをもって仕事をしている人たちが出現する反面、仕事の面でプライドをもつことができない人たちも大勢出てきてしまうことも考えられます。
そして、残念なことですが、こうした過渡期の時代においては、社会にとって有益ではない、反社会的・非社会的な仕事も生まれてきます。インターネット上のワンクイック詐欺などはその典型ということができます。ワンクイック詐欺のような明らかな違法行為ではないけれども、道義的には認められないような仕事も出てきています。仕事の内容に気が付かないでそういった会社に入ることになり、犯罪行為スレスレの仕事をしなければならなくなったら、良心は傷つけられボロボロになってしまいます。粗悪品や認可されていない商品を売り歩く訪問販売の仕事をしている人たちは、最初からそういう仕事だと知って会社に入ったのでしょうか。そして自分の仕事にプライドをもってやっているのでしょうか。インターネットを検索すると、化粧品を訪問販売で売り歩いている会社の社是10か条がアップされていました。お年寄りからお金をむしり取り、相手をだまして売りつけるような内容でした。電話でのセールスを行っている人たちも同様でしょう。オレオレ詐欺の電話の「かけ子」と紙一重の状況であるように思います。インターネットやSNS等にアップされた動画や写真に「いいね」を連発する仕事をしている人たちも、自分の仕事にどれだけ社会的な意味や意義があると感じているのでしょうか。
お金を稼ぐために、あるいは生きていくために仕方がない、という話はよく聞きます。しかし、若い人たち、特に工芸高校の生徒諸君が、こうした「だまし」をベースとした仕事を選択しないですむように、職業選択ができる力を身に付けて欲しいと思います。以前、不動産のセールスでしつこく電話をかけてきた人に、思わず「そんな仕事してないで、他にやるべき仕事があるんじゃないの?」と言ってしまったら、逆切れをされてひどい罵声を浴びたことがあります。よほど大きなストレスを抱えてセールスの電話をしていたのでしょう。仕事にプライドをもてず、逆に人としての誇りを傷つけられることほど、人間にとってつらいことはありません。
将来に必要となる資格を取得すること、仕事に必要な技術を身に付けることは、相応の努力が必要で大変かもしれません。しかし、自分が選んだ仕事を誇りとプライドをもって、やり続けていくことができるための大事な切符です。そのための工芸高校での勉強だと考えて欲しいと思います。

2017
10.02

社会的自立

工芸高校は女子生徒が多い学校です。全日制は全体の80%は女子生徒で、年によっては男子がクラスに2、3名ということもあります。定時制もM科だけは男子が多いですが、他の3つの科は定時制としては女子が多いです。
さて、日本の社会は「男社会」で、女性の社会進出が遅れていると言われています。これはいろんな理由が考えられますが、特に第二次世界大戦後だけを注目して考えると、経済成長の中で、男性が社会で働き、女性が専業主婦として家庭を守る、という役割分担が行われていたことが大きな理由となっています。私が20代の頃に、女性の理想の結婚相手を表すことばとして、「3高」ということばが生まれました。高学歴で、高収入、しかも背が高い男性を指して言い、そうした男性と結婚することが女性の幸せであるように言われました。こうしたことばが生まれるということは、女性が就職して会社等組織の一員としてバリバリと働くよりも、結婚して家庭を守ることが大切であるという考え方が強かったことが背景としてあります。今でもこうした考え方が根強く残っていて、昨年などは地方議会で女性議員に対してやじを飛ばした男性議員が問題視されたこともあり、女性が社会の第一線に出て働くことに抵抗感がある人達がいるのも否定できません。
しかし、状況はこの10年、20年で大きく変わってきました。少子化高齢化が進む中で労働力としての女性が期待されているということがありますし、「3高」の男性がほとんどいなくなった、という現実的な問題もあります。高学歴で背が高い男性は今でもいますが、高収入であり続けることは保証されない社会に日本がなったということです。日本経済がとても強かった時代は、いい大学を出ていい会社に入れば、年功序列でそのまま収入が下がることがありませんでした。だから男性が会社で働き、女性が専業主婦である社会的構造が成り立ちました。
 残念ながら、現在はいい大学を出たとしても、いい会社に入れるとは限りません。いい会社に入っても、年功序列ではありません。いい会社がずっといい会社であり続けるわけでもありません。こうした状況では、男性、女性関係なく、誰もが社会的に自立することが求められていると言えるでしょう。しかし、社会的必然性云々を考えるよりも、何よりも社会的に自立することは、自らのアイデンティティをきちんともつことであるということです。社会の一員として自立することは、自尊心をもつ、自分自身に誇りを感じる最も大事なことです。
では、どんな職業に就いて、どのように社会的な自立を図っていくのがよいか。やっかいなことですが、これには定まった答えはありません。工芸高校では全定各科で、先輩や講師をお招きして進路やオリパラ、保健に関する講演会を行っています。こうした方々の話を聞いて、生徒諸君で自分の答えを見つけてください。工芸を卒業したら進学するのか、就職するのか、進学先は大学なのか、専門学校なのか、就職であればどんな会社がよいのか、人それぞれに正しい答えがあります。工芸高校の卒業生は、専門職、あるいは専門的な知識や技能を必要とする職業に就いていることが多いようです。長く勤めることができ、専門的な知識や技能が必要なので社会からいつでも必要とされている、そういう職業選択ができるがよいと考えています。

Copyright Tokyo Metropolitan KOGEI High School. All rights reserved.
先頭に戻る