2017
12.25

パッケージデザインとしてのレコードジャケット

 私が中学生だった頃、新しいオーディオが次々と発売された時期がありました。高性能アンプとレコードプレーヤー、FMラジオチューナーとカセットデッキ、そして大きなウーハーを備えたスピーカーのセットが、音響メーカーや家電メーカーから何種類も売り出されました。こうしたオーディオセットが出現する前は、レコードプレーヤー一体型のオーディオ(ステレオと呼ぶ方が一般的でしたが)が普及していましたが、この頃にはアンプとレコードプレーヤーとが分かれるタイプとなっていました。オーディオに興味をもつ人の増加を受けて、オーディオ雑誌もいろいろと刊行され、掲載された新製品のオーディオの性能対比表を一生懸命に見た記憶があります。
 オーディオを自分で制作することも流行りました。現在PCを、部品を買い集めて自作する話を聞きますが、同じ感覚だと思います。設計図や必要な部品はオーディオ雑誌に掲載されているので、それを見ながら秋葉原の電気街に買いに行きます。当時の秋葉原の電気街は、今でもそうかもしれませんが、真空管やトランジスタ、発光ダイオードやコンデンサーの類いに詳しいプロか、もしくはプロ級の人たちばかりが集まって、かごに入ったパーツをひっくり返しながら、専門的な話に興じている様子があり、中学生にはおいそれとは近づけない独特な雰囲気があり、現在のように街全体として華やかなサブカルチャーの発信地ではありませんでした。

 私も親に散々ねだってオーディオを買ってもらい、宝物のように大事にしていました。当たり前ですが、オーディオは音楽を聴くための機械ですので、オーディオを購入したら、レコードを買わなければ意味がありません。親はオーディオは買ってくれましたが、レコードは買ってはくれませんので、こずかいを貯めて1枚1枚買い足していくしかありません。しかし、中学生にとってLPレコード1枚3000円は高額で、簡単には購入できず、お年玉でやっと買ったレコードを大事に何回も聞き返すといったことをしていました。
 同年代の人たちと話をするときに、会話の「ネタ」の一つとして初めて買ったレコードは何?という話があります。中学生や高校生のお金が無かった時に、こずかいで何のレコードを買ったのか?といった話です。ある人の最初のレコードはジャズの名盤であり、ある人はクラシックの名曲であり、またある人は日本のロックバンドのアルバムで、その曲にまつわる思い出をあれこれと語り出すと、時間を経つのを忘れます。
 買えないレコードの音楽はFMラジオからカセットテープに録音するのが当たり前でした。FMラジオの番組は、番組表が載っている雑誌を購入し、何日の何時から、何の曲がかかるのかをあらかじめチェックして録音しました。これをエアチェックと言いました。カセットテープにもこだわりがあり、高性能のメタルテープには特にお気に入りの曲を録音しました。また、エアチェックした曲をセレクトしてオリジナルの音楽曲集を作成する人もいました。このカセットテープ文化はソニーのウォークマンが発売されることで、ピークとなったように思います。
 さて、初めて買ったレコードジャケットがどんなであったのか?初めて買ったレコードの話をしていると、そんな話も出るときがあります。また、レコード屋さんで縦置きに並んだレコードを一枚一枚つまんで持ち上げ、ジャケットを眺めた思い出話が出るときもあります。人によっては強く記憶に残っているレコードジャケットがあったり、レコードジャケットにうんちくを傾ける人もいたりして、例えばビートルズのジャケットになぜこんな写真が使われたのか、説明してくれます。

 自分が買ったレコードジャケットのデザインを思い返し、工芸高校にいて生徒諸君の実習授業を見るようになった現在では、あらためてレコードジャケットのデザインの重要性に気が付きます。レコードジャケットはそのレコードに録音されている音楽の世界を表現する一部で、ジャケットの印象で音楽の聴き手はその曲の聴き方を方向付けているように感じます。現在では音楽を購入する際には、CDの場合もありますが、ダウンロードによる場合が増えました。ダウンロードだとジャケットのデザインを気にすることなく、レコード盤とか、ディスクといった手に取ることのできる形でもなく、データとして手元に入って来ます。音楽は、純粋に聴き手が自分の聞きたいように解釈すればよいので、ジャケットを介した送り手の世界観の押し付けは、本来ならば不要のはずですが、実際にはそんなには単純化できるものではない。以前はジャケットデザインが、音楽を聴く時のとても大事な雰囲気づくりや聴き手の方向性を示唆するものとして機能していたのではないか、そんな気がします。
 実は先日に日テレの「バンキシャ」を見ていたところ、レコードが復活しつつあり、販売が拡大しているという話をやっていました。また、レコードジャケットも大事な役割を果たしていることの指摘がありました。
 パッケージデザインとしてレコードジャケットが果たしている役割はとても大きい。そんな思いを強く感じつつ、デジタル全盛、データ重視の時代ではありますが、見直されるパッケージデザインが他にもあるかもしれません。

2017
12.18

「革命のファンファーレ 現代のお金と広告」の内容がす ごい!

 以前の校長ブログで「新しい仕事と資金の集め方」ということを書きました。その中でクラウドファインディングについて触れました。新しい仕事はどのように生まれてきて、その仕事を進めていくためのお金の集め方についての考察を述べましたが、私の拙い短文よりも、同じテーマを実践に基づいてきちんとした形にした本が出ていることを知りましたので、紹介したいと思います。「革命のファンファーレ 現代のお金と広告 西野 亮廣(幻冬舎)」です。
 西野 亮廣(にしの あきひろ)さんは、お笑いコンビ「キングコング」のつっこみを担当している芸人で、かつ絵本作家でもあります。テレビのお笑い番組をあまり見ないのでよくわからないのですが、どうやらよく売れているお笑いコンビのようです。また、西野さんの絵本作品も見たことがありませんが、こちらも大ヒット絵本である「えんとつ町のプぺル」の作者として有名です。工芸生にとっては西野さんのどちらの顔が有名でしょうか。

 さて、その絵本作品である「えんとつ町のプぺル」を出版するにあたって、どのようにしてお金を集めて絵本を出版したかという実践と、それに伴う様々な経験が、「革命のファンファーレ」の主題となっています。
 まず資金集めとして、西野さんはクラウドファインディングで、絵本を出版するための費用を集めました。どれくらいのお金を集めることができたかというと5650万4542円で、この額はクラウドファインディングで集められた資金としてはきわめて高額ということです。そして絵本は30万部というヒット作品となり、絵本の個展には60万人もの人が来場しました。
 なぜ、これだけの金額を集めることができたのか。クラウドファインディングで資金集めをしているタレントさんは他にもいるけれども、必要な資金を集められる人ばかりではない。お金とは何か、クラウドファインディングとは何かと、いう問いに対しての答えをちゃんともっていることが必要である、と西野さんは言います。西野さんが本の中では、「お金」とは「信用を数値化したもの」、「クラウドファンディング」とは「信用をお金化する為の装置」と述べています。だから、クラウドファインディングで資金集めをしたいなら、まず「信用を勝ち取ること」を行わなければならないと主張しています。
 これだけを読むと取り立てて何てことないように思われますが、この考え方の背景には、「職業そのものがなくなっていく時代に突入している」「副業、兼業、転職が常識になりつつあるこれからは、好きなことを仕事化するしか道が残されていない時代」「頑張れば報われる時代は終わり、変化をしなければ生き残れない時代に、僕らは立ち会っている」といった時代認識があり、これまでの職業観や金銭観では生きていくことができない、社会全体に根本的に大きな変革が起きていて、その変革は親世代も経験していないので、自分で経験して生き抜いていかなければならない、と考えています。

 絵本である「えんとつ町のプぺル」を制作する過程においても、西野さんの考え方はこれまでの絵本づくりの常識とかけ離れていました。絵本は一人の絵本の作家がストーリーを書き、挿絵を描き、編集、装丁のすべてを担当するのが当たり前です。しかし、西野さんは一冊の絵本を大勢のスタッフが担当する分業制で制作したのです。これまでなぜ一人で絵本をつくっていたのか。それは絵本はせいぜい売れても5000部が限度であり、収益から考えても一人で作業を行わざるを得ない。けれども、クラウドファインディングで資金を調達することによって、映画のように大勢のスタッフで一冊の絵本を制作することを可能としてしまいました。そして、さらにすごいのは、制作した「えんとつ町のプぺル」を惜しげもなく、インターネットで無料公開してしまったことです。これまでの考え方では、著作物を無料で公開することはあり得ることではなく、有料公開するか、一部を限定して公開するなどにより、著作権を守ることが常識でした。西野さんはあえてこの常識を打ち破ることで、逆に「えんとつ町のプぺル」の販売数を大きく伸ばしたのでした。
 このインターネットでの無料公開についても、なぜそのようにしたのか「革命のファンファーレ」の中で述べられていて、「人が時間やお金を割いて、その場に足を運ぶ動機は、いつだって「確認作業」で、つまりネタバレしているモノにしか反応していない」「インターネットが物理的制約を破壊したのちなら、それに合わせて売り方も変化させていかなければならない」「「無料公開したら売り上げが落ちて、クリエイターにお金が入らなくなるだろ!」というのは数年前の常識だ。今は「無料公開しなかったら、売り上げが落ちて、クリエイターにお金が入らなくなる」というケースが増えてきている。数年前の常識に根を張ってしまうと、時代の変化と共に沈んでしまう」といったことが述べられています。
 さらに、西野さんは「えんとつ町のプぺル」の事前予約の販売サイトを立ち上げ、その申し込み分の1万冊を出版社に発注し、発注した際に支払った2435万1138円の領収書をインスタグラムにアップしました。それをテレビが取り上げ話題となり、絵本の販売数をさらに押し上げました。
 さらにさらに…といった具合で「えんとつ町のプぺル」を売るための新しい発想を次々と実現し、実行していった戦略が「革命のファンファーレ」にたくさん出ています。

 西野さんが実行した戦略は、これから工芸生がデザイナーやクリエイターとして、どうすれば世の中に出て行くことができるか、活躍していくことができるかというヒントが満載であるように思います。いい作品をつくっていればチャンスがやって来るわけではない。いい仕事を行っていれば、収入が上がっていくわけでもない。インターネットの発達が世界を根底から変えてしまっていることは、誰もが理解していますが、それによって、お金の役割がどのように変わってしまったかとか、作品を売るにはどのように広告を行っていけばよいのかとか、必要な資金をどうやって集めていけばよいのか、などは誰も経験していないので教えてくれる人もいません。自分で考えて道を切り開いていかなければならない。西野さんはそれを自分で考え、考えたことをやり遂げて「えんとつ町のプぺル」をベストセラーの絵本にしました。そしてそのノウハウを「革命のファンファーレ」で著作してさらに販売数を伸ばしています。明らかにされた絵本の販売のためのノウハウは、すでに多くの人が模倣していると思いますので、新しいやり方は自分で考えなければなりませんが、西野さんの考え、実行したことは、自分で新しい方向を考えていく上でとても参考になるのではないでしょうか。

 世の中はどんどん変化していて、その変化の先端を読み切ることと、誰よりもクリエイティブな仕事を行うこととは密接に関係しているように思います。技術を磨き、知識を身に付けることは当たり前で、さらに世の中の動きをよく見ながら、自分の才能を多くの人に認めてもらうための算段を上手に行って欲しい。工芸生にそうした力が備わっていくことを願っています。

2017
11.28

明治レトロ大正ロマンの続き

 工芸祭について書いたブログの中で、大正期を端的に表すことができる風俗を描くのは難しいということを書きました。唯一のそれは、海老茶式部と呼ばれる女学校生徒の姿で、大和 和紀の「はいからさんが通る」で表現されている、ということも書きました。
 海老茶式部とは、明治の終わりごろから昭和の始めにかけての女学校生徒の通学服のことです。現在でも大学等卒業式で多くの女性が着用する晴れ着として残っていて、着物に袴をベースとした格好であることはよく知られています。袴はもともと男性が着用するもので、女性が着用するものではありませんでしたが、明治に入っていろんな経緯を経ながら、女学校生徒のために女性用の袴が工夫されました。考案したのは学習院女子部、当時の華族女学校教授であるとインターネットには出ています。女子生徒たちは、髪の毛を束髪庇髪に結い上げ、髪の裾を結い流しにして大きなリボンで結び、着物は矢餅柄(やもちがら)が定番となっていて、編み上げブーツ(革靴)を履いて通学していました。矢餅柄がどんな柄が知りたい方は、やっぱりグーグルで検索してください。すぐに出てきます。
 「はいからさんが通る」には主人公が自転車に乗るシーンがあります。颯爽と女学校生徒が自転車に乗る様子が時代の最先端として小説にも描かれています。この自転車通学の女学生のモデルは、芝の自宅から上野の音楽学校に自転車で通っていた後の国際的なオペラ歌手となる人で、当時「自転車美人」と言われて見物人が出ていたそうです。明治の終わり頃では、まだ自転車はきわめて高価な贅沢品でした。1台150円から250円(イギリス製かアメリカ製の輸入車)だったそうで、貨幣価値換算は難しいですが、おおむね当時1円を現在2万円とする説が多いので、自転車の値段は現在の国産高級車と同じぐらいの値段だったと思われます。
 大正期は「モガ」の時代でもありました。モガの女性たちが髪をバッサリと断髪にして、お洒落な帽子をかぶり、世界の流行の先端をいく洋装の写真が残っています。社会進出の先駆けとして、多くの女性たちがそれまでには無かった職業に就くようになりました。「はいからさんが通る」の主人公も、婚約者である少尉がシベリアで戦死した後、没落する婚家を建て直すために、髪を短く切って洋装し、出版社に勤める姿が描かれています。モガが時代の流行としてもてはやされ、多くの女性の憧れであったとは思いますが、例えば一口で洋装といっても、簡単に安価に洋服が手に入るわけではなく、モガであるためには相当な努力と出費が伴ったものと推測します。
 いろんな資料を読んでいると、関東大震災とともに大正ロマンという言葉に代表される大正期の自由で華やいだ雰囲気は終焉し、昭和初期の軍国主義が着実に台頭してくるように感じます。女学校の生徒たちの通学服は、海老茶式部からセーラー服を代表とする洋装へと変わっていきました。府立工芸学校の築地校舎は全焼し、水道橋における新しい時代へと進んでいくことになります。しかし、当時の工芸生たちは新しい時代への希望を胸に抱きつつ、昭和前期の幾多の困難を乗り越えなければなりませんでした。
 「はいからさんが通る」展は東大そばの弥生美術館で開催されています。12月24日までです。

2017
11.24

ドゥシャン カーライについて

スロバキア大使館にて、ドゥシャン カーライというスロバキアのアーティストについての講演がありましたので、聞きに行きました。お話してくださったのは、千葉県内の高校の美術の先生である江森清先生で、長年ドゥシャン カーライと親交があり、毎年のようにカーライ宅に泊まりに行き、カーライの作品を蒐集している先生でした。
カーライは世界的には絵本画家として知られていて、日本においても絵本画家として紹介されているようです。例えば新潮社から出版されているのは、カーライが挿し絵を描いた「不思議の国のアリス」ですし、1988年に国際アンデルセン賞を受賞しているなどにより、その名が知られたという経緯もあります。
しかし、カーライの創作活動は、ファインアートからデザインまで、きわめて多岐にわたっていて、絵本画家といった限られた世界のみではないことが、お話を聞いてとてもよく分かりました。現代のクリエイターやデザイナーは、創作活動が旺盛であればあるほど、様々な分野に活動の幅を広げるように、カーライもいろんなことに貪欲に取り組んできたようです。
カーライの彩色画は細い筆を用いて、細かいタッチで彩色していく技法で、スーラのような新印象派の点描の考え方に近いそうです。また、版画に関しては、木版、銅版、リトグラフ、シルクスクリーンなどあらゆる版画作品を制作していて、さらに、スタンプや切手などのデザインも手がけているとのことでした。
私はカーライのことをこれまで全く知りませんでした。カーライだけでなく、私たちは東ヨーロッパのアートやデザインが、どんな状況にあるかほとんど知識がありません。そのことをスロバキア大使館の人に話したら、スロバキア人も日本のことをほとんど知らない、という返事が返ってきました。
講演の後は、親睦パーティでしたので、スロバキア大使館の人たちに、カーライに対するのスロバキアの人たちの受け止め方を聞いてみたところ、ある人は、カーライは伝統的なスロバキアの文化を継承しているアーティストである、しかし、今の若者は世界で受け入れられるようなアートやデザインを好んで制作していて、カーライのようなアーティストは減っている、と言いました。別の人は、カーライは伝統的なアーティストではなく、独特な表現方法を選択して創作活動を行っていて、想像力による独自な世界を作り出した作家である、シュールレアリスムの影響を受けているのではないか、と言いました。(これらの会話は英語で行われたので、私の拙い英語力では、正しくはその人がそう言った気がする、というレベルです。)
ただ言えることは、カーライはとても勤勉なアーティストで、細かく根気がいる作業(デザインやドローイング、デッサンといった工芸の生徒が毎日行っている実習と同じもの)を全く厭うことなく、創作を続けているという事実です。

12月15日(金)から工芸高校図書室で、ドゥシャン カーライ展を行います。江森先生が所蔵するコレクションの一部を展示します。興味がある工芸生は見に来てください。12月21日(木)までやっています。

2017
11.08

キャッチコピーをつくろう

先日、全日制マシンクラフト科の仲三河先生の研究授業が、2階コンピュータ室で行われました。授業のテーマは「キャッチコピーをつくろう」。情報技術基礎の単元「ポスター制作」の中で、ポスターに書かれているキャッチコピーの重要性を知ることを目的とした授業でした。

実は私も20年前、キャッチコピーを教材として、授業で扱ったことがあります。国語表現の中で、ことば一語一語のもつ役割や大切さについて、キャッチコピーをつくることで学習しようと考えました。1980年代から90年代はポスター広告の力が今よりも強力だった時代で、ポスターに載せるキャッチコピーは流行語になるなど多くの人たちに影響を与えていました。広告ポスターはテレビ等マスメディアにおけるコマーシャルと連動し、多くの人々の目に止まるように工夫されていました。そのため、優れたキャッチコピーをつくることができるコピライターは引っ張りだこで、例えば糸井重里氏といった有名人は時代の寵児として大活躍していました。糸井氏がつくったキャッチコピーはとても数が多く、つくられてから30年以上経っていますが、生徒諸君もどこかで聞いたことがあると思います。「いまのキミはピカピカに光って」「おいしい生活」「インテリげんちゃんの、夏休み」「くうねるあそぶ」など例を挙げればキリがありません。
私の授業では、こうしたかつて広告に使われて人口に膾炙したキャッチコピーをいくつも例に挙げて、一体何のコピーであるか空欄に記入する学習プリントを作りました。例えば「スカッとさわやか」「ファイト一発」「腕白でもいい」「お口の恋人」「はやい やすい うまい」など、こちらもいくらでも上げることができます。その後で実際に学校のキャッチコピーをつくってみようということをやりました。

さて、仲三河先生の授業でも、最初に実際に疲れわれているカロリーメイトの広告ポスターを使いました。そのデザインは自転車に乗った男子高校生がカロリーメイトを口にくわえ、「すばらしい空腹」というキャッチコピーが載っているものです。先生はイラストレータにポスターを取り込み、かつこのキャッチコピーを消して、「自分ならどんなコピーをつけるのか考えよう」という質問をしました。生徒たちは話し合いをしながら、キャッチコピーをつくり、生徒たちからは「今日をつくるチカラ」「大好きなあの子に会う前に。」「食事も青春も一瞬だ!!」といいう3つのコピーが発表されました。先生はその場でイラストレータを操作して、カロリーメイトの広告ポスターの中に生徒のつくったキャッチコピーを載せてスクリーンに映し出しました。工芸の生徒のつくったキャッチコピーのほうが、オリジナルよりもできが良いようにも感じました。先生はキャッチコピーをつくってポスターに載せてみると、キャッチコピーによって広告ポスターに描かれたストーリーが全く変わってしまうことを指摘しました。男子高校生がなぜカロリーメイトを口にくわえ自転車に乗っているか?カロリーメイトが彼にとってどんな役割を果たしているのか?キャッチコピーによって全く異なってしまうことを生徒たちはよく理解し、キャッチコピーの広告で果たしている役割の重要性を納得できました。
工芸高校ではキャッチコピー等を考える授業は、マシンクラフト科だけでなく他科でも行われており、先生方からいろんな教材でアプローチしてもらっていると思います。こうした授業を通してことばの力の大切さを実感してもらいたいです。

2017
10.31

2017工芸祭御礼

工芸祭には台風の大雨にも関わらず、5500人を超える大勢の方に御来校いただき、本当にありがとうございました。特に日曜日は朝からの大雨で、工芸高校までいらっしゃるだけで大変だったと思います。この場を借りて厚く御礼申し上げます。
さて、今年の工芸祭のテーマは、「大正ロマン・明治レトロ〜110年前の時代〜」でした。都立工芸は創立明治40年で、今年が110周年にあたり、この5月に創立110周年記念式典を挙行したことにちなんだテーマを設定しました。展示や装飾、あるいは展示案内の生徒の服装など、テーマに沿ったものとなっていたことに、お気付きいただけたのではないかと思います。
こうしたテーマに沿った展示や装飾を見ながら、明治レトロや、大正ロマンをイメージできるデザインはとても作りにくいかもしれないと思いました。都立工芸が創立した場所は銀座すぐ隣の築地万年橋のたもとでした。明治40年頃の東京銀座の写真は残っていて、インターネットを検索すれば当時の銀座の様子はすぐに見ることができます。また、図書資料を調べれば、街行く人々の服装、風俗も見ることができます。けれども、私たちの知識の中には明治終わり頃から大正初めにかけて、街の風景やそこを歩く人々についての確たるイメージがあまり無いのです。明治初めの文明開化期であれば、鹿鳴館での洋装、ドレスを着た婦人たちの姿が思い浮かびますし、昭和初期の戦争期であれば、男性は国民服やゲートル、女性は木綿モンペの姿が思い浮かびます。最近、大阪の高校がダンスの全国大会で「バブル」というテーマで踊った「ダンシングヒーロー」がウェブ上で話題となっていますが、お母さんやおばあちゃんに用意してもらったというステージ衣装は、バブルファッションはかくあるものというイメージを見事に具現化していました。
大正期は「モガ」「モボ」の時代ではありますが、私たちの知識の中にはどんなファッションであったか定着していません。インターネットで検索すると、いまから100年前の日本の女性たちが、とても素敵なおしゃれをして銀座の街を歩いている様子がうかがえます。また、女子生徒(女学校)の通学服は、大正年間は和装(海老茶式部スタイル)が中心で、関東大震災後に洋装(セーラー服)に切り替わっていきました。この時代の女学生を描いた漫画「はいからさんが通る」が、大正期の風俗で一番共有されているイメージかもしれません。そんなわけで、生徒諸君が明治レトロ、大正ロマンを表現するにとても苦労した形跡がいろんなところにありました。時代を表現するとは難しいものです。

展示されていた生徒たちの作品は、今年も力作が並び都立工芸のものづくりやデザイン教育の質の高さを感じていただけたと思います。特に今年の工芸祭は(もしかしたら私がこれまで気が付いていなかっただけかもしれませんが)、製図とかデッサン、平面構成、パターン構成といった基礎基本の実習作品の質がとても高かったです。これらの基礎基本の実習作品は、生徒諸君が都立工芸の専科の先生方から、いろいろときめ細かく指導を受けながら完成させた作品です。科学の研究には基礎研究が重要であるように、ものづくりとデザインには基礎基本の実習がとても重要です。これらの作品の質の高さが、今後の工芸生の発展力、展開力につながっていくと思いました。
完成された作品だけではなく、科によってはデザイン帳、クロッキー帳等を展示している部屋もありました。最初に思いついたイメージが乱雑に書き込まれていたり、スケッチやデッサンのアウトラインが描かれていたりして、まだ作品とは呼べない段階を見ることができました。しかし、混沌としている段階での生徒たちの発想がとても素晴らしく、さすが工芸生であると自慢したくなりました。パワーやエネルギー、突破力のようなものが満ち溢れていて、作品として完成を目指す中で、このパワーやエネルギーをさらにどうやって高めていくか、生徒たちにはがんばって欲しいと感じました
販売や体験も今年も大勢の方に利用していただきました。生徒諸君が制作したものを大勢の方に使っていただけるのはとても嬉しいことですし、光栄なことです。
生徒たち一人一人がそれぞれの役割を果たし、工芸祭を盛り上げていました。生徒諸君は工芸祭の準備の中で学んだこと、習得した知識や技術はこれからの実習で生かしてくれると思います。そして。最上級生は全日制も定時制も卒業に向けて課題制作を完成させていかなければなりません。全日制は卒展があります。より高いレベルでの作品の完成を期待できますので、卒展にもどうぞ御来場ください。(2018年3月2日〜3月4日 於東京都美術館)

2017
10.24

水辺の仏像

九州のある地方で、今年の夏の大雨の後、今まで見たことがない仏像が川底から発見された、というニュースがありました。江戸時代に行われた護岸工事のときに、堤防が崩れないようにと埋められていた仏像が大雨で流されたと推測されるという話です。
川や沼に関わる仏像の話はいろいろと残っています。例えば舟地蔵という舟にお地蔵さんが乗っている仏像があります。神奈川県藤沢市にある舟地蔵は、戦国時代に北条早雲が付近の大庭城を攻めたときに、城の周りの沼地の干上がらせ方を教えてくれたお婆さんを、秘密が漏れることを恐れて殺していまい、それを哀れんだ人々が供養するためにつくったという言い伝えがあるそうです。
別の舟地蔵の話もあります。奈良の興福寺隣の猿沢池南側にある率川(いさかわ)という小さな川にある石橋の下には、舟形の台座にいくつもの石仏が祭っているそうです。幕末のころ、この辺りの河川工事をした際に、埋もれていた約40体の石仏が見つかり、ここに集められて祭られるようになったのだそうです。率川地蔵尊またはただ単に「舟地蔵」と呼ばれているということでした。
京都には川地蔵という行事があるそうです。お盆に河原で石を積んでお地蔵さんをつくり、霊をお迎えする行事です。14日に6体の川地蔵を作って先祖の霊を迎え、翌15日朝に鉦(かね)を鳴らしてお参りするのが習わしだそうです。川地蔵さんは河原の石を見つくろい、体に見立てた長めの石を6つ立て、それらの上に、頭(笠)に見立てた小石を3つずつ重ねるといいます。このため、体用の石は、てっぺんが平らな石を探すそうで、石の大きさや形で6体はふくよかだったり、ちょっと背が低く見えたり、石の傾きで、表情も異なるそうです。三途の川を渡るときに、子供たちが賽の河原で石を積み上げるところへ鬼が来て石を崩してしまうので、子供たちはお地蔵さんの衣に隠れて守ってもらうという、賽の河原のお地蔵さんの話にどこか似通っています。
私たちの身近にある浅草寺の観音像は、推古天皇36年(628年)に隅田川で漁をしていた兄弟の網にひっかかっていたのを発見されたことになっています。観音像は一寸八分(約5cm)の小さな仏像で黄金製だそうですが、この観音像は秘仏となっているため、誰も見たことがありません。Wikipediaによれば、明治2年に役人が来て調査を行ったところ、本尊はたしかに存在していて、奈良時代の様式の聖観音像で、高さ20cmほど、焼けた跡がうかがえ両手足がなかったということです。ただし、このWikipediaのテキストが何かが分かりませんので、事実確認ができません。
日本に初めて仏像が渡ってきたのは、日本書紀によるとによると、欽明天皇13年(552年)のことです。百済の聖明王により釈迦仏の金銅像が経典とともに献上されました。欽明天皇が、仏教を信仰の可否について群臣に尋ねたところ、物部氏は反対しましたが、蘇我氏は賛成しました。そこで天皇は仏像と経典を蘇我氏に下げ与えたので、蘇我氏は仏像を拝んで仏教に帰依したところ、疫病が流行ってしまったそうです。物部氏は仏像を拝んだことで疫病が流行ったと考え、仏像を「難波の堀江」すなわち、大阪の湿地帯に捨ててしまいました。(この「難波の堀江」の位置と考え方については諸説あるようです。)物部氏と蘇我氏との争いは物部氏が滅びるまで続けられ、蘇我氏が勝利したことにより、日本では仏教がこの後広く信仰されることになりました。
長野県に善光寺という有名なお寺があり、その御本尊はこの「難波の堀江」に捨てられた仏像を、本田善光という人が発見して自分の故郷にもって帰った仏像ということです。浅草寺と同様に秘仏とされていて、誰も見たことがありません。7年に一度の御開帳のときには、御本尊の替わりの前立本尊が開帳されています。もっとも、こちらもウェブ上では江戸時代に本尊を確認したという記事がありますが、テキストが分からないのでこれも事実を確認できません。
こうやって、仏像と川や沼との関連を拾っていくと、両者の関係性は高いような気がしてきます。日本列島は雨が多く、水害に見舞われることがある反面、日照りとなると干上がって水不足に人々は苦しむことも多かったのではないかと考えられます。人々は仏像に長雨のときは雨上がりを祈り、旱魃のときは雨乞いをしていたと想像します。宮澤賢治の「雨ニモマケズ」の詩の一節である「ヒドリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ」も思い起こされます。
日本に渡ってきた仏教と仏像は日本の風土に習合して土俗的に発展していきました。運慶が彫った四天王とはまた違った仏像の在り方でありました。九州で見つかった仏像がどのような願いや祈りを込められているのかを、想像するのは楽しいものです。日本中にはまだまだ水辺に埋まって眠っている仏像が数多くあるに違いありません。

2017
10.23

運慶展

運慶が最も優れた仏師であることに異存がある人は少ないでしょう。
鎌倉時代の初期に、幕府の武士たちに依頼され、あるいは興福寺や東大寺の復興のために、手がけたその仏像は、芸術性の高さと独創性において日本の彫刻史上類を見ないものです。
運慶の父親は康慶という仏師であり、奈良仏師として興福寺の復興に大きな業績を残した人でした。平安時代末期は天皇家や摂関家の勢力が衰え、政治的実権を握った武士の時代への過渡期で、武士の棟梁である源氏と平家の武力衝突の時代でした。こうした武士の勢力争いには京都周辺の僧兵を擁した京都周辺の大寺も関与し、争いに巻き込まれていきました。平重衡による古都奈良(南都)への攻撃がなぜ行われたのか、どのような経緯で東大寺と興福寺が焼き討ちになったのか、調べてみると偶発的な要素もあるようですが、東大寺や興福寺が焼失することは、きわめて大きな歴史的文化的損害であると同時に、人々が精神的な拠り所を失う大事件でありました。
この南都焼き討ちの後、高倉上皇の崩御、平清盛の逝去が続き、源氏の挙兵、源氏の軍勢の上洛によって平家は壇ノ浦での滅亡への道を歩み始めます。一方焼け野原となった東大寺と興福寺では僧重源による復興運動が始まり、後白河法皇や新しい権力者である源頼朝による支援などにより、徐々に立ち直るようになりました。その際に腕を振るったのが、康慶とその息子運慶でありました。
平安時代中期から後期の代表的な仏師は定朝という人です。11世紀の初期から中期にかけて活躍した仏師で、代表作は宇治平等院の本尊である阿弥陀如来坐像です。平等院は藤原頼通(藤原道長の後継者)によって建立され、その鳳凰堂は十円硬貨のデザインにもなっています。阿弥陀如来坐像は上品なお顔立ちと全身が柔らかな曲線を特徴としていて、全体として彫りが浅く、身にまとっている衣も薄く表現されていて、いかにも平安貴族が好みそうな優雅な仏像です。定朝の仏像は定朝様(よう)と呼ばれ、仏像彫刻の主流となっていきました。
康慶の作品が最初に現れたのが、12世紀半ばであったので、定朝からおよそ100年後のことです。「運慶展」には康慶の作品がいくつか展示されています。康慶作の四天王立像(興福寺)を見ると、運慶に見られる肉体的表現やリアリズム、写実性がすでに出現しており、彫りが深い仏像となっています。康慶が息子の運慶に大きな影響を与えたと言って間違いありません。また、康慶作の法相六坐像(興福寺)などは一人一人の僧の微妙な表情までを彫り込んであり、今にも立ち上がって動き出しそうな錯覚まで覚えます。運慶の傑作の一つである世親菩薩立像・無著菩薩立像(興福寺)に表現された人間のリアリズムにつながるものです。
このように康慶から引き継がれた仏像の肉体的な表現やリアリズム、写実性は、運慶においてさらに大きく発展しました。世親菩薩立像・無著菩薩立像や四天王立像(興福寺)毘沙門天立像(願成就院)は一見の価値があります。圧倒的な存在感で見る人に迫ってきます。ではなぜ、康慶や運慶はこうしたリアリズムや写実性を重要視したのでしょうか。いろんな理由が推測できると思いますが、彼らの活躍した時代が源氏と平家が武力衝突をしていた戦乱期であったこと、東国の武士たちが信仰の対象をより具体的で分かりやすい仏像を求めたことが理由ではないか、と考えます。戦乱期の人々にとって、仏法を護持する四天王は誰よりも力強くなければなりません。正邪を正し、戦さを終わらせることができる仏像を人々は求め、その思いが運慶の作品につながっていったのでしょう。そして、その力強さを表現するには、よりリアリズムや写実性が必要でした。
康慶の弟子でやはり優れた仏師に快慶がいます。快慶はよく運慶と対比されますが、やはり写実性の高い作品となっています。けれども、その作品は運慶の作のように生々しい人間が感じられるのではなく、人間のもつ精神性の高さや清らかさが表現されており、運慶とは異なった人間のもつ面を仏像に託しています。戦乱期の中だからこそ、人々は人間のもつ精神の気高さを仏像に求めたに違いなく、快慶はそうした人々の求めに応えた仏像を彫りました。
残念なことですが、運慶のもつ強烈な個性は後継者に引き継がれることなく廃れました。運慶展では運慶の子供たちの作品も展示されていました。運慶の子、康弁の作である天燈鬼立像・龍燈鬼立像(興福寺)が展示されていて、その強烈な個性には目を引くものがありましたが、運慶の後継者であった湛慶の作品には繊細さが目立つようになり、運慶の作がもつ生々しい人間臭さのようなものは感じられません。その意味において、運慶は突出した存在です。なぜ運慶のもつ個性が後継者たちに引き継がれていかなかったのか、ということも仏像研究、彫刻研究において重要なテーマであるように思いました。
「玉眼」のことにも触れておきます。仏像をより生きた人間のように表現する技法として、運慶展では玉眼が説明されていました。仏像の目に水晶を入れてキラキラ輝かせ、生きた人間のように感じさせる技法です。こうした細かい技法により運慶の仏像がより写実性と力強さをもって、見る人を魅了することを感じます。
運慶展はとても混んでいますが見る価値のある展覧会でした。

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