2017
05.28

創立110周年記念式典校長式辞

輝く初夏の陽射しの美しい今日この良き日、東京都立工芸高等学校 創立110周年記念式典の開催にあたり、大勢の御来賓の皆様の御臨席を賜りましたことを、高いところからではございますが、心より御礼申し上げます。

東京都立工芸高等学校は、明治40年 1907年、東京市京橋区築地の地に、東京府立工芸学校として誕生いたしました。本校建学の主旨については、日露戦争直後の産業振興と国力増強とを色濃く反映した記録が残っています。当時、東京高等工業学校長 手島精一氏による、東京府議会に提出した工芸学校設立予算案において、府立工芸学校建学の主旨として次のように文章が残っています。「近時我国における機械製作または土木建築に属する工業教育は漸次勃興したりといえども、工芸品の製作に関する技術者の養成にいたりては、いまだ教育的施設あるを見ず、戦後経営の一としてこの種事業の振興を図るはきわめて機宜に適することのみならず、まず都市において施設する必要を痛切に認むるものなり」工芸品の製作技術者の養成による産業の開発、振興が、本校を設立する理由であることが示されています。その後、渋沢栄一氏を設立委員会委員長として計画が進み、創立年には金属細工科、精密機械科、翌年には家具製作科、明治43年には附属補習夜学校、大正7年には印刷科が設立され、さらに第二次大戦後の昭和24四年に図案科が加わり、110年の歴史を刻む中で、卒業生22000人を超える堂々たる高等学校として現在に至っています。

本校卒業生の中には文化勲章を受章された方、人間国宝に認定された方、叙勲や褒章を受けられた方をはじめとして、伝統工芸の世界、デザイン、クリエイティブな世界の第一線で、大勢の卒業生たちが活躍してきました。
こうした素晴らしい人材を輩出してきた背景として、本校の教育活動の質の高さがあげられます。実習等を通して、いろんな角度から生徒のもつ能力、才能を引き出し、高い技術や知識を身に付けるように鍛錬していく、そうした姿勢は綿々と本校に引き継がれてきました。創立から2年後の明治42年の「学校案内」が記録として残っています。「教育の方針」として「本校の教え方は可成生徒をして進んで自ら学習せしめ、教師は生徒の学習に対し親切に手を引いてやる流儀なり」「本校に於ける教授は一般に実用を主とし、殊に技術に関する学理実習の両方面は、全然実際的にして、業務に就きて後出会うがごとき教材を精選し、その相互の連絡に関しては十分に思慮を加えたり」とあり、この姿勢は百十年経った現在でも何ら変わるところがないと断言できます。

しかし、本校はけっして平坦な道をたどって現在に至っているわけではありません。大正12年の関東大震災の際は、築地の校舎は全焼し、焼け跡に仮校舎を建てて実習をおこなった時期がありました。日中戦争時から第二次世界大戦に至る時期においては出征する先生、士官学校や兵学校、予科練に進路変更する生徒の姿がありました。先生方の努力もあり、空襲で校舎が焼けることはありませんでしたが、戦後、企業に拠出したりGHQに接収されたりして工作機械が不足し、実習に不都合が生じた時期もありました。また、校地の移転問題や現校舎建て替えの際の先端技術教育センターとの併設問題など、多くの苦労があったということも聞いています。こうした苦労を先人たちが乗り越えて、110年目を迎えることができたことを忘れてはなりません。

さて、これからの時代の本校の役割は何か、本校はどうあるべきか、ということを考えていかなければなりません。近年、急激なコンピュータとネットワークの発達は私たちの生活を大きく変えてきました。文部科学省が昨年末に発表した中央教育審議会答申には、「子供たちの65%は将来、今は存在していない職業に就く」という、ニューヨーク市立大学大学院センター教授キャシー・デビッドソン氏の予測や、「今後10年〜20年程度で、半数近くの仕事が自動化される可能性が高い」というオックスフォード大学准教授マイケル・オズボーン氏などの予測、「2045年には人工知能が人類を越える「シンギュラリティ」に到達する」という指摘を掲載しています。しかし、こうした将来の予測が困難な時代であるからこそ、しっかりとした知識と技術に裏打ちされた教育が必要となってきています。そして、その教育の成果として、社会の在り様、ライフスタイル、それに伴う必要な「ものづくり」や「デザイン」をきちんと提示すれば、それがこれからの社会のスタンダードとなっていくに違いありません。すなわち、都立工芸生が、本校で学んだ技術と知識によって、これからの社会の将来像を提示できるようになることこそが、創立以来これまで、日本の「工業」「工芸」「デザイン」をリードしていた本校の役割ではないか、と私は思います。
もちろんこのことは、けっして容易なことではありません。しかし、都立工芸生の心意気として、より困難な開拓者の道を選び、創造性や感性、発想力によって、新たな時代をつくり出していくことが大切だと思います。そして、優れた「ものづくり」や「デザイン」を生み出すことによって世界の人々に平和と幸せをもたらしてきたいものです。

結びとなりますが、創立110周年を期に、本校の益々の発展と、本校生徒諸君、卒業生の皆様の活躍を祈念するとともに、全都立高等学校の発展と都立高校に通う生徒全員の幸せを願い、また、創立110周年記念式典に御出席いただきました皆様の御健勝をお祈りいたしまして式辞といたします。

2017
05.18

室町時代の絹織物

娘と社会(歴史)の中間テストの準備を一緒にしていたときのことです。室町時代の産業の発達についてノートに書かれていました。そこには「絹織物の発達…西陣織(京都)や博多織(福岡)」と書いてあったので、このことを先生はどんなふうに授業で教えてくれたのか尋ねてみると「別に詳しく教えてくれたわけではなく、黒板にそういうふうに書いたので写した」と娘は言いました。
絹は紀元前3000年ぐらいに中国で絹糸の生産が始まっていたと言われていて(他の説にはもっと前の紀元前5000年という記述もあります)、漢の時代にはすでに養蚕のやり方ができ上がっていた、と調べると出てきます。御存知の通り、絹糸はカイコが吐く糸から作られるのですが、その昔、中国でどのようにしてカイコガを発見して、その吐く糸から絹糸をつくる方法を発明するようになったのか、よく分かっていないようです。現在カイコガは完全に飼育化された昆虫で、野生のカイコガはすでに存在していない、飼っているカイコを野外の桑の木に放ってもすぐに全滅してしまい、人間の飼育環境でなければ生きていくことができない昆虫となっているということでした。小さな芋虫がつくった繭から糸が取れて、それを衣服に加工しようと考えた古代中国人は、きわめて偉大な発想力の持ち主であったと考えられます。
絹は中国からチベット、インド、アラビアを経てヨーロッパに運ばれました。中国でしか採取できない謎の糸を求めて、西方の商人たちは乾燥した広大な砂漠を、ラクダを連れて旅をしてきました。そして逆に西方にしか産出していなかった様々な品々を中国に持ち込みました。例えば「紅(べに)」は、エジプトを原産とするベニバナから抽出される赤い染料ですが、絞り出した色素から赤だけを取り出す製法に工夫がいること、膨大なベニバナを必要とすることから、絹と同様に非常に高価な商品でした。ガラスは高い温度で珪石などを焼くと、透明質で固い物に変化することがメソポタミアで発見され、透明で美しい器として中国にやってきました。
絹が日本に渡って来たのは弥生時代だったと言われています。様々な弥生時代の遺跡から絹織物が発掘されているそうですが、やや時代が下って古墳から発掘されている絹織物の織り方が中国の絹織物とは異なった糸の使い方であることから、日本独自の絹織物がこのときにすでに織られていたと考えられています。大化の改新以後、律令政治が成立するにあたり、絹は租庸調のうちの正調として組み入れられているので、一定量の生産が各地で行われていたのではないかと思います。
平安時代、貴族文化が華やかな頃、女性装束として着用された十二単は絹織物であったということです。色の組み合わせに季節を表す厳格なルールが存在し、染めの技術の向上もさぞかし重要だったと思います。十二単は20kgもあったと言われていますが、当時の日本のカイコである「小石丸」という種の吐く糸は細く、実際の十二単は8堋度だった、という説もあるようです。
平安時代の終わり頃の平家支配の時代から鎌倉時代にかけて、当時の中国である宋と日本との間で日宋貿易が行われ、日本に輸入されたのは宋銭とならんで、陶磁器や絹織物でありました。モンゴルによる中国支配後に成立した明と日本とは1400年代以降、日明貿易が行われ、日本に輸入されたのは、やはり明銭(永楽通宝)とならんで生糸であったということです。こうしたことをいろいろと考え合わせると、日本で生産される絹糸と絹織物は、中国から輸入される絹糸や絹織物と比べて品質で見劣りがしていたに違いなく、日本の絹織物の品質向上は、江戸時代になってからようやく図られていったのではないかと思われます。
西陣とは応仁の乱のときの山名宗全を中心とした西軍が陣を張った場所ということですが、応仁の乱後に絹織物の手工業者が集まるようになり、この地名となりました。博多織はもっと歴史が古いようで、宋から帰国した人が絹織物の技術を持ち帰って伝えたのが発祥であるようです。
私が娘のノートを見てひっかかったのは、これら室町時代から盛んとなった西陣織や博多織の絹織物の原料は一体どこから来たのか、ということです。国内で生産されている絹糸であったのか、明から輸入された絹糸であったのか。国内で生産されていたとしたら、どうやって糸を博多や京都に運んだのか。明からの輸入であったとすれば、海路の安全をどうやって確保したのだろうか。京都は応仁の乱で焼け野原となっていたでしょうし、すでに下剋上の時代となり交通の安全が図られていたかどうかも分かりません。また、海路においては瀬戸内海は海賊が横行し、そうしたことを題材とした小説も出ているぐらいで(和田 竜「村上海賊の娘」新潮文庫)また、中国の沿岸を倭寇が荒らし回る時代となってきていて、交易船の安全を確保するのも相当に難しかったのではないかと思われます。
そうした困難な環境にあっても美しい絹織物を必要とした人々がいて、その人達のために絹が織られていたということを印象深く感じました。困難で殺伐とした時代であったからこそ、人々は美しいものを求めたのかもしれません。

2017
05.06

最近電車の中でマンガ雑誌を読んでいる人を見ることがなくなった

先日、知り合いの先生と雑談をしていた時に、「そういえば、最近電車の中でマンガ雑誌を読んでいる人を見ることがなくなったねえ。」ということをおっしゃいました。
確かに一時代前の通勤電車では、30代ぐらいのサラリーマンを中心に、少年ジャンプやヤングマガジンといったマンガ雑誌を読んでいる人が大勢いました。少し年齢が上の層の人たちは、新聞を小さく折りたたんで読んでいました。そういう人たちが朝の通勤電車で読んでいる新聞は日経でしたが、帰りの電車では夕刊フジを読む人が多数派でした。
少年ジャンプや少年マガジンの読者層よりも年齢が上の層をターゲットとしたマンガ雑誌も数誌あって、「ヤンマガ」とか「ヤンジャン」とかの略称で呼ばれていました。インターネットで検索してみると、10年ぐらい前の書き込みに、電車の中で「よい大人」がマンガ雑誌を人前で読むことへの批判的な書き込みがいくつもヒットします。新聞では、外国人からなぜ日本人のビジネスマンはマンガ雑誌を持ち歩くのかという質問を記者が受けたというコラムを読んだ記憶もあります。
その当時は、日本人の知性と教養の低下が、電車の中でのマンガ雑誌の読書につながっているというような受け取り方を感じていましたが、今になって思えば10年ぐらい前までは、日本の最もクリエイティブな才能がマンガ界に集まり、優秀な作品を次々と生み出していたということなのかもしれません。
マンガ雑誌の発行冊数は、この10年ぐらいで大きく落ち込んできているようです。「コロコロコミック」のように、あまり発行冊数が落ち込んでいないマンガ雑誌もありますが、「少年サンデー」や「なかよし」のように、3割、4割にまで落ち込んでいる雑誌もあり、全体として大きく減少傾向にあります。
かつて電車の中でマンガ雑誌を読んでいた人たちは、現在スマホでゲームをやっていたり、LINEで誰かと連絡を取っていたり、オンラインニュースを読んでいたり、いずれにしてもスマホに移行してしまいました。ただしクリエイティブな才能もこうした電子化業界に移行したかどうかはよくわかりません。かつてのクリエイティブな才能が生み出したマンガは、アニメの現在として活用され、日本が発信する文化として世界中で認知されるようになりました。電子化業界にクリエイティブな才能が移行していて、それが何らかの日本の発信する文化にまで成長するかどうかはこれからだと思います。

2017
05.01

人形とロボット

都立工芸の卒業生で高名な方に川本喜八郎氏という方がいらっしゃいます。
この方は戦前の府立工芸学校を卒業後、現在の横浜国立大学を経て、人形作家、アニメーション作家として活躍をされました。私の記憶と印象では、NHKの人形劇である「三国志」「平家物語」が圧倒的です。ドラマの登場人物は生きているかのごとき人形たちで、愛憎、別離、戦闘など、さまざまな場面が演じられていたことを思い出します。
喜八郎オフィシャルサイトには、人形を制作する苦労についての記述があり、例えば回想「三国志」には『三国志に登場する名のある人物だけでも3000人位いると云われているが、NHK人形劇『三国志』では、 その中で名のある人物約200人を作った。文楽では、カシラにそれぞれ若男、源太、文七などと名前が付いていて、 役柄に合わせて使うカシラが決まっている。つまり、非常に高度な典型化が出来ている。 三国志では、その典型化をさらに個のレベルまで進ませて、玄徳は玄徳のために生まれてきた、 周瑜は周瑜のために生まれてきた、というふうに、彼等が生まれてくるのをお手伝いする、という作業を続けた。 三国志漬けの毎日で、苦しさも楽しかった。孔明のカシラはなかなか生まれてくれなくて、出来上がってみると、 「私は違うよ」とのたまい、4度作り直して、くたくたに疲れ果てた夜中に、やっと「私が孔明だ」と名乗りをあげてくれた。 乱世の群雄たちも、つぎつぎに生まれてきたが、今となっては、個々にどんな状態で生まれてきたのか、 思い出すのも難しい。』といった興味深い内容が掲載されています。
喜八郎オフィシャルサイトにもありますが、日本には文楽という独自の人形劇があり、人形づくりの高度な技術に加えて、演じる際の所作、仕草をどのように表現するのか、そのために人形をどのように操作するのか高い洗練された技術が継承されていて、観客を魅了する伝統芸術となっています。日本には人形に感情を移入して、あたかも生きている人間として感じ取るような文化的な基盤が存在するのかもしれません。
 さて、昨日、日本テレビの「バンキシャ」という報道番組で「オリヒメ」というコミュケーションロボットの紹介が放送されていました。オリヒメはそれ自身に搭載されたコンピュータのコントロールによって動くのではなく、タブレットを通して人間が操作して動くロボットでした。コンピュータを搭載してその判断で動いたり、会話したりする「ペッパー」のような種類のロボットではなく、オリヒメは高さが21cmで上半身のみのロボットで、自分の「分身」「替わり」として機能する分身ロボットであるということです。放送では、入院している子供が授業を受けるため、入院している病院から離れた場所でオリヒメが子供の替わりに授業を受け、その画像が子供の前の画面に映し出されている様子や、ALS(筋萎縮症側索硬化症)の方が自分の気持ちを表現する手段としてオリヒメを使用する様子が放送されていました。オリヒメを開発した吉藤健太朗氏は小学校のときに3年半引きこもっていて、自分の替わりに学校に行ってくれるアバターが欲しいと思ったことが、オリヒメをつくる動機となったそうです。
ロボットも人形の一形態ということができるので、そのロボットに気持ちや思いを相手に伝える機能を付与するといった発想はもしかしたら、日本の伝統的な考え方の線上にあるのかもしれない、といったことを感じました。

2017
04.27

ストップ!フェイク

アメリカ大統領選挙の時にフェイクニュースのことが話題になりました。
クリントン氏とトランプ大統領の一騎打ちの状況となったとき、インターネットやSNSにそれぞれの候補にとってマイナスダメージとなるようなニュースが投稿され、拡散し、それが実際の選挙に大きな影響を与えたとも言われました。しかし、そのニュースが実際に事実であったのか突き詰めていくと、誰かがねつ造したニュース、すなわちフェイクであったということが多くありました。日本においても熊本地震の時に動物園のライオンが脱走したというフェイクニュースを作成して拡散させた人が逮捕されるという事件もありました。
なぜこういうことが起きるようになったかについては、様々な分析がなされていて、例えばニュースを新聞、テレビ、「ニュースサイト」で見る人よりもSNSで見る人が多くなったから、とか、自分の都合の良いニュースばかりを人々が見るようになって、そうしたニュースがフェイクだと思わずに、事実と信じ込んで拡散してしまうようになっているから、とか、政治的な目的や広告収入を上げるため、フェイクを掲載することに効果があることを、ニュースの作り手が気付いたから、とか、現在、多くの人はスマホでニュースを閲覧しているので、拡散するのには画面のタップで簡単に行うことができるようになったから、とかインターネットで検索するとたくさんの記事を見つけることができます。
フェイクニュースという言葉が生まれる前にも、「デマ」とか「ガセネタ」とかいう言葉が存在し、その危険性についてもいろいろと言われていました。私たちがよく聞いたのは関東大震災のときのデマについてで、無関係な人々が大勢犠牲になる事件が起こったという記録があります。しかし、こうしたこれまでのデマとフェイクニュースの違いは、デマが口コミで広がっていくのに対して、フェイクニュースはスマホのタップで広がっていくということではないか。すなわち、その速さと広さが口コミでデマが広がる範囲を大きく超えていくことになり、デマで起きた悲劇よりも、フェイクニュースで起きるかもしれない悲劇のほうが何倍、何十倍も大きくて、取返しがつかないようなことになる可能性がある、そんな危険性が考えられます。
フェイクニュースが何らかの目的をもって拡散されたとき、私たちはそのニュースが事実を伝えたものか、何か目的をもってつくられて拡散しているのか、よく見分けることが必要となっています。今世界では、紛争や難民、核実験やミサイルの発射など解決が困難な問題についていろいろとニュースが流れていて、きわめて危険な状況に陥っていることが伝えられています。こうしたニュースについて、私たちはよく見分けて事実を知らなければなりません。

2017
04.20

都立工芸体育祭の歴史

今年度の全日制体育祭が近づいてきて、各科の練習もいよいよ本格的になってきました。朝練のためずいぶんと朝早くに家を出ている人も多いと思います。保護者の皆様、お子様を朝早くに送り出すために御協力いただき、本当にありがとうございます。ちなみに定時制の体育祭は10月上旬ですので、まだ先になります。
さて、今年は創立110周年ですので、都立工芸では体育祭がどのような経緯で行われるようになったのか、校長室にある資料で調べてみました。
けれども、いつから体育祭が行われるようになったのかについては、はっきりしたことは今のところ分かりません。都立工芸が大正12年(1923年)に発生した関東大震災で全焼する前、京橋区築地に校舎があった大正年間の話として、『運動会は毎年秋には校庭が狭いので二子玉川遊園地で行われたが、我々が二年生の時上級生同士の競争合図に使用するピストルによる事故があって以後、運動会は中止になった。』という妙に物騒な記録と、『運動会は京王遊園で行った。各科応援歌の練習もやった。』 という記録を見つけることができるにとどまりました。(「築地時代に学んだ想い出を綴る―築地万年橋」築地工芸会80周年編集委員会編)
水道橋に校舎が移った昭和初期の話として、昭和4年(1929年)に運動会が開かれるようになった記録が残っています。(「創立80周年記念 工芸高校80周年史」築地工芸会記念誌編集委員会編)それによると、『運動会をやりたい、という考えがみんなの心の中にあった。本建築が水道橋に出来てから、校友会競技部の極度の拡張及び社会スポーツ熱に動かされて、体操以外の体育(すなわち競技)というものに対する理解を大部分の人が持って、それは必然的に実行に移された。期日は11月3日(昭和4年)場所は山肩先生の御厚意で陸軍戸山学校のトラック及びフィールド、競技は各科対抗のものを入れてやるということに定まった。−中略−Aは白、Pは黄、Fは赤、Mは紫に各科色別が定められて、各自の色の旗が作られ、屋上で応援歌の練習が始まった。選手は校庭の急場に作られたトラックで練習を始めた。』
「工芸高校80周年誌」には第6回運動会(昭和10年 1935年)の写真が掲載されていて、グランドに面した3階建ての旧校舎の壁面いっぱいにF科(現I科)のモニュメントである巨大なのこぎり、P科(現G科)のモニュメントである巨人像、M科の巨大なMの文字が貼り付けられている様子がよく分かり、戦前からのDNAが平成29年の現在まで都立工芸では綿々と受け継がれていることがよく分かります。
昭和4年以降7年間運動会が開かれ、昭和12年(1937年)に中国との戦争状態が深刻になるとともに運動会は中止となりましたが、翌昭和13年に体育会という名称で一旦再開されました。競技種目としては「二人三脚」「百足競争」「メジシングボール」といった種目が各科対抗で行われ、チームカラーはA科緑、M科紫、F科赤、P科黄となっています。しかし、昭和15年には各科対抗が廃され、昭和16年には報国団鍛錬部大会という名称に変わり、武装競争といった軍事色が強い競技もあったと記録にはあります。
第二次世界大戦敗戦後の都立工芸高校は、工作機械類が企業の工場に動員されていたままであったり、GHQに差し押さえられてしまったりの状態だったということもあり、授業や学校生活を軌道に乗せるのに大変な苦労があったと記録にはあります。昭和22年(1947年)は本校創立40周年で記念の工芸祭が開催されるとともに、体育祭は本科、第二本科合同で実施され、はでなデコレーションも復活したということが、「都立工芸100年の歩み(築地工芸会創立100周年記念誌編集委員会編)」に書かれています。
昭和23年に本科は5年制の旧制実業学校から3年制の新制高等学校へ、第二本科は4年制の定時制高等学校へと改編されました。昭和24年(1949年)図案科が新設され、現在の5科がそろいました。昭和24年の体育祭では、図案科はシンボルカラーにコバルトブルーを選択し、かつ少人数であることカバーするために、デコレーションで他科を圧倒する作戦として、高くそびえる「パレットを背にしたヴィーナス像」を制作したということです。さらにその翌年には「天国への階段」と題したデコレーションでその高さが校舎屋上に達し、それ以降、各科が高さを競うようになったため、高さ制限が決められるようになったということも「都立工芸100年の歩み」に書かれています。また、創立八十周年記念誌にはこの時期の体育祭の様子を旧職員の手記として、『戦後いち早く工芸体育祭が開かれ、生徒とともに大いにハッスルした。特に、各科のデコレーション仮装行列は科の粋を極め、江戸前の神輿をハッピ姿でかつぐもの、結婚式の仮装行列、更には目玉の動く巨大こけし人形など、そのアイディアは目をみはるものがあった。さすがに工芸ならではの感がした。見物人の中には進駐軍の兵士までヤンヤと押し寄せ、その日の夕刊に体育祭の写真がのったりした。』という記載もあります。
 こうした歴史的な経緯を経て体育祭は今日へとつながってきています。今年度の体育祭の優勝がいったいどの科となりますか、生徒諸君の活躍がとても楽しみです。

2017
04.18

虚無と絶望との戦い

ミヒャエル・エンデというドイツの童話作家の作品に、「はてしない物語」という作品があります。本の表紙には尻尾を咥えあっている2匹のヘビがデザインされていて、ストーリーの一番最後の大事な場面でその意味が分かるようになることが印象的です。
このお話は大きく二部構成になっています。前半部は虚無との戦いがテーマになっています。読んだ人はよく御存知だと思いますが、崩壊に瀕しているファンタージエンを救うため、主人公の少年が本の中の世界に入り込んでしまいます。そして、ファンタージエンの中で活躍していたアイレーユや龍のフッフールと共に、冒険をするお話が展開していきます。ファンタージエンの崩壊とは、現実世界に生きる人々がファンタージエンを忘れたことによって起こっていて、そのために虚無がファンタージエンを呑み込んでいきます。ファンタージエンの生き物は虚無に呑み込まれると現実の世界では、虚偽や人間の頭の中の妄想として現れるといったことも描かれています。
ではこの虚無とは何だろうか。はてしない物語の中では人狼の口からアイレーユに、人間世界の戦争や世界帝国が虚偽によって生まれること、ファンタージエンの虚無が広がれば広がるほど、人間世界の虚偽が拡大することが語られます。このことはミヒャエル・エンデの、ファンタージエンに代表される人間の創造性や想像力を滅ぼすのは虚無である、という考え方が示されています。虚無の辞書的な意味や哲学のニヒリズムを検索すると、もっともな説明が書かれています。しかし、ミヒャエル・エンデが示した人間の創造性や想像力が欠如していくと、世の中に虚無と絶望が支配的になっていくというものの見方は具体的で納得性が高いと感じられます。
そして、今現在、虚無に呑み込まれて崩壊しそうなのは、ファンタージエンではなく、現実世界なのかもしれないと感じることが、世界で、日本でいろいろと起こっています。しかしながら、現実世界には「幼ごころの君」は多分いないので、誰かが名前を付けることで世界が救われることもなく、私たち一人一人がどんなことが起きようと、虚無や絶望と戦っていかなければならないということが感じられてなりません。私たちは虚無や絶望がどんなに深いものあっても、創造性と想像力をもつことで、世界や日本で起こっている様々な虚偽や事件、事故に立ち向かっていかなければなりません。
さて、20世紀の哲学はいろんな捉え方はあると思います。宗教から哲学が決別して以来、人間の在り方を根底から問い直そうとする哲学者が何人も出現しました。人間の孤独性を積極的に受け入れて、そのことを超克しようとする哲学者や、ヨーロッパでの考え方に限界を感じ、東洋や仏教を取り入れようとする哲学者も少なくないようです。しかし、20世紀は2度の世界大戦を経験するだけでなく、人類史上かつてないありとあらゆる残虐行為が発生した時代でもありました。人間の尊厳を脅かす虚無と絶望からの人間の在り方を問い直し、組み直す思索を行うことが哲学の役割だったように思います。
ミヒャエル・エンデの作品もその影響を強く受けているように感じられ、虚無と絶望からの回復、再生が、はてしない物語の後半部では描かれているようにも思われます。
20世紀で提起された人類的な課題は21世紀になって解決したとは思えません。むしろネットワークの発達とAIの出現によってより複雑化しているように思います。
これからの創作活動はこうしたことも踏まえながら進めていく必要があるのではないでしょうか。

2017
04.07

平成29年度入学式 校長式辞

春4月、満開の桜に祝福された今日この良き日に、東京都立工芸高等学校に入学された新入生の皆さん、入学おめでとうございます。そして、入学式に御出席いただきました保護者の皆様、本日はまことにおめでとうございます。
また、御多用にもかかわらず、御来賓の皆様には本校入学式に御出席いただきましたことを、心より御礼申し上げます。

さて、東京都立工芸高等学校は、明治40年1907年、東京府立工芸学校として、東京府京橋区築地の地に開校以来、本年をもって110年、卒業生22000人を超える伝統校として現在にいたっています。来月5月28日には、文京シビックセンターで創立110周年記念式典を挙行します。都内唯一の「デザイン」「ものづくり」の専門高校として、確固たる地位を占めていると自負していますが、こうした都立工芸に対しての社会からの信頼は一朝一夕ででき上がったものではありません。文化勲章を受勲された方、人間国宝となられた方、叙勲や褒章を受けられた方、デザイナーとして、あるいはクリエーターとして、各界の第一線で活躍している卒業生たちが、営々と築き上げてきた賜物です。都立工芸を目指して入学した新入生の皆さんの多くが、こうした卒業生たちにあこがれを抱き、将来デザインやものづくりの仕事に就きたいと考えていたり、美術系大学に進学したいと考えていたりしていると思います。ぜひ優れた業績を残してきた卒業生のあとに続き、創造性豊かなデザイナー、クリエーター、ものづくりを担う職人、技術者などを目指していただきたいと思います。

では、どんな高校生活を送ったら、将来自分の希望する就職や進学をすることができるようになるのか。私から二つ新入生にお願いがあります。一つめは毎日決められた時間に学校に通い、先生方から求められた学習や実習の課題にきちんと取り組むことです。このことは、高校生として当たり前のことですが、この当たり前のことがなかなかできなくて、学習や実習に遅れが生じてしまう人が毎年のようにいます。特に時間通りに登校することはとても大事です。遅刻の常態化は学校での学習や実習に対する意欲の低下を招くだけでなく、緊張感のゆるみから実習中のケガにつながります。電車通学をする人が大半だと思いますので、電車の遅延を見越して、時間に余裕をもって登校すること。そのための生活のリズム、すなわち毎日の就寝時間や起床時間をきちんと確立すること。
二つめは、クラスメートや上級生と切磋琢磨して、自分を高める努力をしてください。これまで友だちとの人間関係を円滑に構築することが上手ではなかった人もいると思います。都立工芸には、都内全域からの入学生がいます。クラスメートは初めて会った人ばかりで、知っている人がいないというのが普通です。すぐに友達を作らないと学校生活が不安かもしれませんが、時間は十分にありますので、急がずゆっくりと友達や知り合いを作っていってください。そして仲良くなったら、作品で互いに競争してください。毎年の新入生からは、都立工芸入学前、自分は誰よりも絵が上手だと思っていたけれども、入学したら私より上手な人がたくさんいた、ということをよく聞きます。自分より絵が上手であったり、手先が器用であったり、発想が豊かで大胆であったりする人が大勢いるからこそ、皆さん一人一人の知識、技術、発想力、感性の鋭さといったことの向上につながります。同じ学年の同じクラスの人だけではなく、上級生にも大勢そうした人がいることでしょう。そうした人たちをぜひ切磋琢磨すること。

保護者の皆様、都立工芸での高校生活を教職員一同は全力でお子様の成長の支援させていただきたいと思っています。しかし、高校生活ではよいことばかりが起きるわけではありません。おうちで愚痴を言うこともあるかもしれませんし、憎まれ口をたたくこともあるかもしれません。また、成長の過程で子供たちはいろんなことを感じ、時には保護者にとって思いも寄らぬ行動を取ることもあるかもしれません。そうした時、一番お子様の力になるのは、お父様、お母様、保護者の方々のお子様を支える力です。学校と家庭とでしっかりと連携して、これから始まる高校生活を進めたいと思います。高校時代には人間の一生を決定づけるような出会いがあります。お子様の人生が幸せなものとなるように、私たちも頑張りたいと思います。御理解と御協力をお願いして式辞といたします。

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